梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

「人のため」の難しさ

 

 

人のため、社会貢献、そんな綺麗な言葉を、大人になるにつれ多く耳にするようになるし、かくいう僕も小さな頃から親や周りの大人に散々言われてきた。

 

中には、それを人生の目的にして生きてる人も居る。世間ではそういう人を「輝いている」なんて表現したりする。

 

私事ではあるけれど、自身、そういう教育を受けてきたから、なんの疑いもなく「人のため」という理由で生きていた十数年があった。

 

詳細は省くけど、僕が発達障害だからなのか、人のために一生懸命になるほど事態は悪化することが多かった。

 

人間関係で悩んでる人が居たら解決法を探して実際に動き、金で困ってる人が居たら工面し、病気で苦しんでる人が居たら名医を探して送迎で通院させ、愛に飢えた人が居たら何十時間でも話を聞き、そばに居た。

 

仕事も、家族や友人や恋人関係も、趣味も、自分が生きる上で関わる人全員のために粉骨砕身した。

 

そこに私利はなく、本当に利他の気持ちだった。

 

だけどフタを開けると、人々の心が苦しみから解放されることはなかった。

いつまでも自分で問題や悩みを解決しようともせず、前を向くこともなく、挙げ句には僕がうまく解決できなかったら、彼ら彼女らは僕を「無責任だ」と責めた。怒号が飛んできた。

 

偽善だとか、自己犠牲だとか、そんなことはどうでも良くて、ただただ目の前の人が悩み苦しんでるのを、なんとかしたいって気持ちだけだった。

 

いずれ、そういった無限に生じる他人の悩み苦しみや問題を、根本的に解決できない自分は価値のない人間だとも思うようになっていった。

 

それ以後の話は割愛するとして、このエントリーで言いたいのは、

 

何を・どれだけ・何人のために・いつまで・どこまでやれば、人のためなのかは、人によって答えも基準もバラバラってこと。

 

心も体も時間も金も、全て枯渇するまで人に使い、文字通り「命を懸けて」生きることが人のためなのか。

それで死んだら、他人からはヒーローヒロイン扱いかもしれないけど、人のために生きろと言いながら死んだら崇めるって、矛盾にもほどがある。

 

 

僕は思う。

曖昧な考えや言葉で一つの生き方を強要することは、人の命を奪うことだ。

 

「人の役に立て」と言う人間のほとんどは、人によって基準や答えが変わるような曖昧な考えが誰かの命を脅かすなど、そこまで深く考えてないし、明確な答えも持ち合わせていない、とても無責任な人間なんだ。

 

 

 

最後に、答えを書いておきたい。

 

人のため=人を幸せな気持ちにすること、という前提で言えば、これを読んでるあなたが、ただそこで生きてるだけで僕は嬉しい。

 

これを読んでいようがいまいが、お互いを知ってようがいまいが、なぜかあなたはあなたとして存在していて、宇宙中でたった一人の存在で、でも偶然は証明できないから必然で、とても不思議な奇跡的で尊大な価値がある。

 

生きてるだけで消費と需要を生み出す。

消費があるから生産があり、需要があるから供給がある。

 

経済的にも道徳的にも社会的にも、生きてるだけで人のためになる。

 

だから、したいことをしたい時にしたいだけして生きればいい。

人は一日のうちに、ころころと気分が変わるけど、それ自体が自然なことだから。

 

嫌な気持ちはどんどん伝染するよ。

 

だから、自分が、穏やかで、嬉しくて幸せで、そういう気持ちが増えるように生きることが、何より人のためになるから。

 

命や心を否定したり、苦しめたり、あなたが幸せを感じることを良く思わない薄情な「人・事・物」からは、できるだけ今すぐ離れるのがいいよ。

 

 

命と心と体を、大切に。