梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

不幸大好き?

 

他人の不幸でメシが美味い?

 

なんて言葉を昔からネットで耳にする。
人は、自分より境遇が悪い人を見て、比べて「自分はまだマシだ」と幸せを再確認する節がある。今に始まったわけじゃない。
日本だろうが海外だろうが、大差ないと思う。

ただ、タイトルの不幸とは、他人の不幸ではなく自分の不幸を指している。

つまり「人間は自分自身を不幸にするのが大好き」ということ。
こんなこと言うと罵詈雑言の嵐に遭っても文句は言えないけど、それでもそう考えざるを得ない。

 

 

 

不幸の強要は犯罪だけど…

 

誰かを殴ったり、拘束したり、強要したり、脅したりすれば、当然捕まる。
犯罪は、言い換えると人を苦しめて自由や可能性を直接的・物理的に奪うこと。

つまり、もし人に苦しめられてるとなれば、犯罪被害に遭ってるということ。
でも周りを見回しても、そんなにたくさん逮捕されてる人も居なければ、書類送検されてる人も居ないし、略式起訴も民事訴訟もない。

にも関わらず、苦しんでる人が居る。
それもたくさん居る。
苦しみだけじゃない。悲しみ、悔しさ、怒り、投げやりなど、負の感情を抱えてる人が多い。

 

かくいう僕自身も、以前はこれらを抱えまくって、持病もありつつ自分を追い込みまくって、挙げ句に自己否定を極め死を選んだこともある。結果的にミスったことも、今ではネタ。

その時に色々と考えていたんだけれど、一体自分はどうして苦しんでいるのだろうという疑問の答えに辿り着いて、自分を救えた。

自分が幸せになることを望んでいなかった。
自分に価値があるなんて思えなかったから。

例えどんな苦境にあっても、難病や経済苦や人間関係の悩みに苛まれても、前向きな人はいつも前向きなのに、自分はそうじゃなかった理由は、本当に単純なことで、自分を幸せにしようとか愛そうとか思ってなかったから。

誰かに苦しめと頼まれたわけじゃない。
幸せになるなと羽交い締めにされたわけでもない。
死ねと言われたわけでもない。(言われても死ぬ必要ないけど)

なのに、ことごとく自分がつらい方向にばかり進んで、どれだけ認められても感謝されても心はザルみたいなもので、自分を如何に苦しめるか、自分をどれだけ否定するか、どれだけ許さないか、そればかり考えてた。
贖罪に生きる、と考えるに至る経験はあったけど、ここでは割愛。

人に言われた些細な事を気にしたり、自分の価値観と違う人に敵意を見せたり、はたまた誰かを羨んだり妬んだり、一喜一憂して、根無し草だった。

 

 

悲劇のなんちゃら

結局は自作自演、自傷行為、被害妄想だった。

誰に何を言われても、それで苦しまなければならないなんて決まりないし、強制じゃないはずだから自由もあるはずだし、肉体的な苦痛があったとて心まで苦しまなければならないわけじゃないのに、自分が何かを恐れてたり自分を愛さないがゆえに、勝手に苦しんでた。

「許せない自分」が1つ増えてく度に、自分のみならず人の可能性まで1つ潰すことになる。どんどん生きにくくなる。


また別の機会に書こうと思うけれど、絶対と相対を履き違えてるから、本質が見えなくなるんだ。
当然、そんなこと(そんな重要なこと)誰も教えてくれないし、たぶんわからないんだろうし、わかる必要もないのか考えようとしない人ばかりなのかもしれない。
でも、絶対と相対の2つの価値と幸せを知ることで、生きる理由や希望を取り戻せる人ってたくさん居ると思う。

 

 

抗いにくいけど不可能ではない


───不幸大好きになってしまう原因は、生まれてからの家庭環境が大きいし、そんな刷り込み価値観を、ある程度成長してから変化させるのは難しいのかもしれない。それが出来た自分は運が良かったのかもしれない。

だけど、生きてる以上、苦しんだままなんてしんどすぎるし、最終的に死によって生の苦しみから解放されるとしても、できることなら幸せが多い人生を生きられるに越したことはないから、こうして色々と書くことによって、自分を愛せてない、自分を許せてない、自分を幸せにしようとしてないって人が、何かに気付くきっかけになれたら、嬉しいなと思う。

 

苦しまなきゃいけない人なんて、たったの1人も存在しないからさ。