梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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幸せと価値は2種類ある

 

 

やっと「絶対と相対」について書いた。

 

 

 

「今日は1日に9万回、明日は8万回、心臓を動かそう!」
なんて自分で決めてる人居ないと思うし、決めても制御できない。

「昨日はまばたきを21739回しました!」って毎日決めて数えてる人も居ない。

他の無数の体の仕組みや機能だって、自分でコントロールできる人は居ないよね。


自分の体がどういう仕組みでなぜ動いていて、そしてそれがどう作られていて、どういう動力で動いていて、そもそもなんで、どこに命が存在するのかって、だーれも知らないわからない。お医者さんでもわからない。解剖医でも。

 

だってそれらをコントロールできてしまったら「形あるものはいずれ壊れる」という真理を覆せることになる。



つまり、自分の意思や意識や自我なんてものは、
命というマスターの圧倒的な制御下に存在するサブでしかない。
preではなくpostでしかない。

心臓は、体からポーンと取り出して、血液と栄養さえ循環させれば、単体でも動く「自動能」ってのがある。

そこに人の意識や自我は関係ない。

人間が生きる意味や理由を考えてる間も、人間の心臓は規則的に動いている。

 

つまり「自分という意識」と「体という物体」は、「命」にとって、命を維持するためのツールと位置付けた方が正確かも。

生きてること自体、自分に一切責任がない。

 

食べないと死ぬ。欲は抑えられない。

生理的欲求は、追い詰められると確実に自分の意思を凌駕する。

 

そんな理解の範疇を超えた、不思議で奇跡的な仕組みを与えられて生かされてるって、つまり存在自体がとんでもない価値。

 

「存在価値がない。自分なんてダメな存在。生きてる価値ない。」

と言ったり思ったりする人は、それが完全なエゴだと気付くととてもラクになる。

自分の命や時間をバカにしすぎ。

これは精神論でも根性論でもなくて、100%の真実。つまり「絶対的価値」。

みんな、産まれてきたこと、生きてること、それ自体が無限の価値。

唯一の存在。

 

生きてる価値ない、意味わからないって考えの人が言ってるのは、相対的価値なんだよ。

 

人が与える価値。

与える人によって変わる価値。

代わりがある価値。

比べられる価値。

 

頭が良い、容姿が良い、スポーツ万能、仕事ができる、健康、優しい、金持ち、努力家、センスが良い、素敵な家族・親友が居る、理解者が居る……etc

 

全部相対。

 

上手・良い・優れてる・できるできない・持ってる持ってない・居る居ないって、全部、比較対象があること。

 

もっともっと手前、根本、大前提に、比較対象がゼロな「自分」って揺るぎない絶対的価値があるのに、そんなものお構いなしで、どんどん時間経過で変化してグラグラ揺らぐ、人によって違う相対的価値ばかりに囚われて、一喜一憂してるのが、世の常。

 

人間の幸せは、価値に伴う。

揺らいで変化する価値しかわからないと、自分の幸せも揺らいで変化して、振り回される。

 

絶対に変わらない価値に気付いて理解すると、極太の柱になって、根の深い大木になって、揺るがない幸せになる。

その土台を一度作れば、相対的価値も、人生に彩りを与えてくれる。

 

何か息苦しさを感じる社会が、悲観的風潮から脱却するには、そろそろ絶対価値(命や時間)に目を向ける人を増やす必要があると強く思う。

 

絶対的な幸せをずっと感じるには、自分の価値に気付くだけ。

 

 

 

 

■追記

 

自分が幸せになるのは簡単だけど、人を絶対的に幸せにするのは難しい。

喜ばせることとは全く違うことだから。

勘違いすると苦しいから気をつけて。

基本的に、人を幸せにするって、相対的価値観をまず払拭させるってことだから、往々にして嫌われることに他ならない。

 

あれがないこれがない、できない持ってないって不満を言う人に、不満だと思う自分の価値観を変えれば良いし、それは自由だよと言うとほとんどの人は怒って離れてく。

そういう人達は、恵まれて平和に生きてるから、そこまで幸せを望んでないんだと思う。

 

人の幸せのために生きる=嫌われること、これは忘れないほうがいい。