「特別」という「差別」
差別しちゃいけないという教育を受け続け、その先に待っていた社会はというと、法律からして差別だらけで、成人して10年経っても尚、そのウソを受け入れられずに居た。
その1つが、一夫一妻制。
夫妻でなくても、恋人・パートナーと言えば当然1人であり、特別であり、その他の人もみんな好きだと言おうものなら、浮気だ不倫だセフレだ汚らわしい疎ましい下劣だ八方美人だと、容赦ない集中砲火を浴びる社会。
1人だけを決めるということは、その他を排除する、はたまたその1人より全員が劣っていると確定させることに他ならない。
これは、間違いなく差別なわけで。
ずっとそれを受け入れることができなくて、人それぞれ違った魅力があって、良さがあって、一人ひとりが一人ひとりしかいない貴重な存在だって真実を否定することなんてできなくて、思春期のころもよく戸惑っていた。
でもようやくわかった。
キーポイントは「時間の流れ」を意識することだった。
まず、
「私を消費してもいいよ。でも私にもあなたを消費させてね」
っていう許容が、支え合うってことなのは間違いなくて。
ここで気をつけないといけないのは、自分だけが相手を消費したい・されたいと望むのは、実はどちらも一方的な消費なんだ。
具体的に言うと、献身的に尽くして尽くして尽くしまくることは、確かに自分を消費しては居るけれど、立場が逆転することを拒めば、それは一方的に相手を消費してるのと同じだよ、ということ。
「尽くすために相手を消費してる」わけだ。
消費する・される、このどちらも、比率は違えど精神的・肉体的にお互いに得られる何かがちゃんと生じることを、予め意識・理解できてることが大切。共通認識だね。相互理解。相互利益。
ただ、ここまでなら「1人に絞る理由」にはならないんだけど、着目すべきは「今」という時間。
「いつか」ではなく「今」、暫定的にそのどちらも許し合うことができる人なのか。 居なければ、発見次第、その人がパートナーになり得るわけだ。
許容し合える度合いと共通認識の度合いが、同じ水準にある者同士こそが、パートナーになり得るんだ。
つまりそれは、物理的に差を付けてるんじゃなくて、あくまで精神という、縛られずに変化するものの一致なんだ。
ここで、僕は反省した。
僕は「人を物理的・俯瞰的にしか見ていなかった」し、「自分という存在を排除した状態」でしか考えてなかった。
誰もが唯一無二の存在で、等しく、差をつけるべきではないってのは、そりゃ人としての絶対的価値の話であって、そうなれば当然みんなが大切にされるべきだという話になる。
基本的人権の尊重だね。
でも、人間は、衣食住だけを見ても1人で生きられないし、必ず誰かからの愛を享受して生きている。
誰かに欲を満たしてもらって生きている。
そう、生きている。時間が流れている。
その「当事者性」を見失ってしまってた気がする。
だから、1人を選ぶというより、その精神的な相互一致があれば、必然的に選択の余地は暫定的になくなるということなんだ。
当然、それは奇跡的なことで、世に蔓延る色恋沙汰は、到底その領域に及ばないケースが多いとは思う。
LGBTも含めて、恋愛も友情も、自分の何かを満たすためって前提では成立しにくい。
……しにくいと書いたのは、無意識・無計算でもたまたま自分の欲望が相手の利益になるケースもあるから。
逆に、奇跡的な精神の一致が、数人起こるケースも稀にある。その場合、ある意味「人類愛」みたいな現象で、恐らく冒頭で書いた問題には発展せず、全員がその関係性を許容しているケースが多いように感じる。
───無意識・無計算で相互利益が生じる相手と共に過ごす関係性を「恋人」や「 友人」と呼ぶなら、次はその相互利益を意識・計算できるようになることが「パートナー」や「親友」になるためのステップアップなんだと、理解できた。
そして、今まで自分がしてきたことは、相手の利益だけを考えて、許容量や共通認識の部分を無視することに他ならなかった。
───ただ、これがわかったところで、僕はASDという自己完結型で、相手のために自分を消費することに慣れては居るけれど、自分が相手を消費することは、とんと経験がないから、また1つ難題ができてしまったわけだけれど。
そう、一番苦手な「距離感」の話だね。
………あぁ、頭がクラクラしてきそうだ。(((((
アスペと性愛と抑うつ
もう7年くらい前に、抑うつだったけど、知らないうちにそんなことも忘れて、いつしか人並みの感情を取り戻したと思ってた。
だけど最近、10年以上も僕に片想いをし続けてる人が、実際に僕を目の前にして、喜びと恥ずかしさと緊張と興奮で取り乱してるのを見たんだけど、特に何も感じなかった。
本来はこの上なきありがたさを感じるはずなのに、僕の心は至って冷静というか、何も感じていなかった。
「これはとてもありがたいケースだ」って、どこか他人事で、薄情な感覚だった。
抱き着かれても、せがまれてキスをしても、何も感じないし心が微動だにしない。
好きとか嫌いとかいう次元じゃなくて、物理的に性対象の体が触れれば、たぶん普通の人なら、恥ずかしいとか、気まずいとか、ヤりたいとか、なんかそういう感情をごく僅かでも感じるものだと思うんだけど。
でも、全く、微塵も、一瞬も、何も思わない。
ただ、その長年の片想いに対する感謝と、なるべく報われるように1日応えてあげようっていう、理屈だけで相手の感情を捉えてしまって、その冷徹さに自分自身が一番驚いた。
そもそも僕はセックスが嫌い。人の粘膜に触れるってめちゃくちゃデリケートでリスキーで神経使うし、相手の機微を常に観察して、その時その時に適切な選択をしなきゃいけなくて、脳が疲れる。
それに、粘膜に界面活性剤を塗りまくるなんて信じられない。科学的に考えて、長期的に皮膚や粘膜を破壊してるのに。なんで相手の体を傷付けてまで快楽を求められるのか、理解に苦しむ。
だから、何かそういう雰囲気になりそうな時は、僕はハッキリ「セックスは好きじゃない」って伝えるし、今回もそう言って納得してもらった。
性行為って、ちょいちょい「興奮してるフリ」をしないと、こっちが冷静にしてるとつまらないって人まで居る。
確かに片方だけが快楽に身を委ねて取り乱してるのって、見た目はアンバランスだってのは解る。
でもよくよく考えたら、感覚神経の過敏さとか体の仕組みからして、男性性は花火で、女性性は夜景やライティングショーだし、快楽の表現に大きな差があって然るべきとも思うのね。
それで「気持ち良くてもつまらなさそうなのはつまらない」って言われるのは心外で、こちらは相手を幸せにしたいだけだから。なんならそれこそが至高のmy pleasureなわけで。
僕のことを幸せにしたいと思うなら、ちゃんと自分を幸せにしてください、幸せを感じてください、そのために生きてください、とさえ思う。
以上のことから、初めは今でも抑うつが続いてたんかなーと考えてたんだけど、たぶんそうじゃなくて、自分の中で何もかもを自己完結し過ぎてて、誰に何をしてもされなくても、ブレないんだと思う。
自己肯定感がありすぎて、言わばもう生きてるだけですでに幸せで、命があることに毎日感動して、歓喜してるから、他はなんでもいいってことなんだ。
そして「○○じゃないと幸せじゃない」とか「○○すれば幸せでしょ」って言葉は、自分の幸せを否定されてるのと同意だから、どれだけ好意を寄せられ慕われても、そういう言葉を聞いた瞬間に「相手の自己肯定感の欠如を満たすために自分の幸せが消費されている」と気付いてしまって、ニセモノの慕情に一気に冷めてしまう。
人同士の関係は、求め合いだと破滅で、尽くし合いが無限の発展だから、相手が喜ぶことを互いにすればいいだけなのに、自分で自分を幸せにできない人同士が、互いの無い物ねだりで求め合って傷付け合う=恋愛なんて形は、茶番が過ぎるだろう。
───もし、尽くし合い・与え合いの関係が築けたら、僕の感情は、理性を超えられるんかな。愛の受け取り方と、喜び方を、思い出せるんだろうか。
非常に興味深い。
否定を否定するという矛盾
僕は「否定は100%破滅への扉だからダメだ」が持論なんだけど、この持論自体が「否定を否定してる」という二律背反(自己矛盾)にももちろん気付いていて、ずっと悩んでた。
だけど、よくよく考えれば、予め何かしらの否定が既に存在しているという前提の話だから「発端の否定を否定する」なら矛盾が起こらない事に気付いて、悩みが解消された。
願わくば、否定を肯定できるようになりたいけど、どれだけ理屈や感情をこねくり回しても、否定の行く先は滅亡や破滅しかなくて、また新たな悩みができた。
基本的に、大大大前提として、生きてるってことそのものが、存在を肯定して(しまって)るわけだから。
ただ、存在を否定することと死を肯定することは、似て非なるもの。
存在する生物はいつか死ぬ。=死の存在を肯定してる。
存在を否定するということは、死を否定すること。100%逃れられないことから逃れようと思うこと。真理に逆らおうとすること。戦わないこと。負けること。自分の命や心を殺すこと。時間をゴミ箱に捨てること。
だから人は不老不死や美貌や若さに執着して、時間の流れに逆らおうともがき苦しむ。死の存在を拒む。目をそらす。
そしてもっと恐ろしいのは、死を否定すること即ち生を否定することと同義ってこと。
生きてることの価値や時間の価値に一切気付けなくなってしまう。
そして最終的に、「死は誰しもに訪れ、自分も例外ではない」という真実を受け入れざるを得なくなった瞬間、そこで初めて自分の「虚像の人生」を悔い、嘆く。
気付かずに生涯を終える人も多いかもしれない。
だから、対象がなんであれ、肯定を否定することは危険だ。
100%、誰かの不幸をもたらす。誰かの苦悩をもたらす。誰かの心がざわめく。
存在してる真実を否定する思考や言動や行動を、僕は否定する。
そして、存在してる真実を、全肯定したいと思う。
アイデンティティを捨てたい
僕らが人と対峙して、その人がどういう人なのかを判断する材料として、いろいろある。
ステータスというやつだけど、国籍、生まれた土地、貧富、学歴、見た目の美醜、職業、役職、性別、趣味、五感の好き嫌い、特技、障害や病気や健康……etc。
僕自身は、このステータスどころか、自分は誰か、相手が誰かも、余計な情報だと感じる。
ずっと前に消したツイッターのアカウントでも散々言ってたことだけど、情報の真実性に、信憑性や説得力なんて言葉は無用なんだよね。
真実かどうかは自分で突き詰めればいいし、誰かの言動や行動を鵜呑みにしたり期待して、それと違ったからって、別にその誰かには責任も何もないし、100%間違いないことを言いますと宣言してるわけでもないはずなんだよ。
いや、仮に100%絶対的な真実を言いますと予め言われてても、結局はそれを鵜呑みにするか自分自身で確かめるかは自由なんだから。
全ては「情報」なんだ。
そもそも、相手がどんな人間であるかを判断する必要性もない。
例えば「理屈が通じない凶悪殺人犯かどうかは判断できないと危ない」などと言われたとて、それを判断できたところで、実際に襲われたら自分の腕っぷしが強くないと勝てないし、殺人犯=自分に殺意を持ってる、ってわけでもない。
これは、全てに当てはまること。
「偏差値の高い大学に行ったから頭がいいはずだ」
「大企業に勤めてるからお金持ちなはずだ。優秀なはずだ」
「親が頭脳明晰だから子どもも賢いはずだ」
「犯罪者の家族だから危なそうだ」
「障害者は健常者より劣ってるはずだ」
「同性愛者は同性みんな好きなはずだ」
「年配者だから達観してるはずだ。弁えてるはずだ」
「子どもだから大人より劣ってるはずだ」
言い出したらキリがないけど、こういう固定観念や「立証のしようがない相対的な常識」みたいなもんは、全て、真実にとっては邪魔でしかないし、視界を曇らせる因子なんだ。
僕らは、生きている以上、意識せずとも幸せや悦を求めているわけで、そのために情報を取捨選択する必要があるのに、どうして自分が苦しいとか嫌だとか怖いとか不安だと感じる情報に、わざわざ自分から近寄ったり捨てなかったりするのか。
社交辞令や「気を使ったウソ」も人生や命や時間の無駄遣いだし、何かを嫌ってる時間や傷付いてる時間ももったいない。
───というようなことは、人類共通の、自分を幸せにするための最速かつ最良の考え方だけど、きっと僕がネームバリューのある有識者だったとしたら、もっと簡単にこの考え方を受け入れられる人が居るんだろうと思う。
つまり、僕が誰であるか、あなたが誰であるかなんて本当にくだらないフィルターで、この世に存在する万物は情報なんだから、それの価値、良し悪しだけを見るようにすれば、全ての人が幸せになるのになぁ、と。
自分が自分であることは、奇跡的な必然で幸せなことではあるんだけど、それはもうわかったから、次はそれを人に「あなたも宇宙一の価値があって、その存在だけで愛されて然るべきなんだ」と伝えたいんだけど、そうなると自分が自分であることが他人のフィルターになってしまって、本当に歯がゆい。
梵我一如、一元論は、どんな人でも1秒で世界一、否、宇宙一幸せになれる真実なのに。
SNSでトラブる原因は時間差?
ツイッターでよく炎上やバズを見かけるけど、他のSNSに比べてもその頻度は段違いに感じる。
FBは基本的に実名だから、善人リア充アピールしてないと人生に大打撃みたいなのは、わからなくもない。
ただ、同じ匿名でも、かつてのmixiはツイッターほど炎上はしてなかった。
しても、コミュニティの中だけとかで丸く収まる(収めなければという共通認識があった)ことがほとんど。
その違いはなんなのかって考えた。
たぶん、発信側と受け取る側で捉えてる時間差が違いすぎるからかなと。
要は、タイムラグをどれだけ感じてるか。
ツイッターでは、そのリアルタイム性を売りにしてることもあって、少々時間が経過してるツイートでも、読んだ人にとっては「たった今起きてること」と捉えがちなんじゃないか、と。
かつての掲示板やmixi、あとは今でもブログなんかは、受け手がしっかり発信側との時間のズレを、無意識か意識してかは兎も角、理解してた節がある。
「この記事がアップされてからこれだけ時間が経ってるから、双方に温度差がある」
と想像するというか。
ちゃんと画面の向こうの人間を意識してたんだろうね。
それで、今はリアルタイム性が重視されてるから、慮る余裕がなく、サーっと流れてきた文章を見たまんま、読んだまんまで感じたことを、なんのためらいもなく、便所の落書き程度の気持ちで書くのかなぁと。
それを相手に届ける、それが相手に届く、なんて当たり前のことさえ考えられてない人が居る。
相手が居るってこと自体を考えてない人も。
以前、個人的に炎上してまって、1万RTかいくらかいった時、敢えてリプや引用RTにも全て反応して返したのね。
そしたら、炎上ツイ自体へのリプではめちゃくちゃ暴言使ってきてて、なんか非合理的なのにそれらしいこと並べてマウント取った気になってた人達が、
「まさか反応が来ると思ってませんでした。すみませんでした。でも私(僕)はこう思います」
みたいになるケース多かったの。
一度出したら引っ込められない、みたいなのがあるから一応主張はしてるんだろうけど、鬼の首取ったような言い草だったのが、借りてきた猫みたいになって、説得力とか信憑性以前の話でとてもおもしろかった。
そんなふうに、独り言でテレビに文句吐いてる感覚がたくさんの種火になってるんやろうなと。
そりゃテレビの中の人が反論してきたってなったら、リアル貞子みたいなもんやから怖いか。
───世の中は、社会は、どこに向かうでもゴールがあるわけでもないのに、こうも生き急いで、何かに追われて何かを追って、ピリピリビクビクしてる。
もっと、人間が人間の価値を思い出さないと、人間が人間を大切にするなんて当たり前のことなのに、誰もできなくなっちゃうよ。
個体の唯一無二性、理解させる教育改革が必要なんだろうなぁ。
まず大人を教育する偉人の出現が先か。
うーーーむ。
アニサキスに木クレオソートが有効だとしても
久々に気になる記事があったので。
アニサキスに正露丸 特許取得 | 2018/7/9(月) 19:13 - Yahoo!ニュース
有効成分の木クレオソートは、木タールを精製したもので、殺菌作用がある。
静菌ではなく殺菌。
アニサキス症のみならず、こういった殺菌作用のあるものを常用するのは非常に危険だと警鐘を鳴らしたい。
このブログを頻繁に読んでる人ならわかると思うけど、殺菌作用のあるものを経口摂取すると、その時点での腸内細菌叢の個体差によって、芽胞を形成する菌だけが繁殖したりして、様々な食べ物に対し経口免疫がうまく働かなくなり得るどころか、そもそも我々ヒトの体が食物の分解・消化において腸内細菌に完全依存していることから、脂質やたんぱく質(必須・非必須アミノ酸)をうまく栄養にできず、通常量でも過剰と体が見なしてしまうようになる可能性がある。
この現象によって、それらが正しく吸収や代謝された体には有益となる、抗酸化物質さえも代謝不全を起こし、経口摂取したあらゆる食物が皮膚や粘膜や内臓、血管で激しい炎症となって排出される。
(線維芽細胞に異常があったり、脂肪が少ない体で脂溶性ビタミンを摂ると、微量でも過剰になり、マスト細胞を異常活性させてヒスタミンが大量放出されるマウス実験があり、それでしか説明できない症状が人体にもある)
しかもそれは、現代の科学では不可逆性で且つ根治法はないから、本当に、万が一そうなってしまった場合は暫定的に一生、生き地獄を味わう。
「唯一選択性」のある抗生物質なんてない。
免疫抑制系、殺菌系、界面活性系の物質・成分は、薬であれ食品であれ、色々な病を引き起こす根本原因。
そして今の科学技術じゃ、二度と元の体に戻れなくなる。
さっきから科学科学って言ってるのはどうしてかと言うと、医学なんて、科学の極々一部に肖って、その既存知識に胡座かいて踏ん反り返って、未だに風邪ですら根治できないし原因もわかってないのに偉そうにして、何も根治できないし逆に苦痛を増やして平気な顔してる組織だから。
サイコパスだ。
例えるなら「まずウイルスをばら撒いて、蔓延した段階で、予め用意してあった不完全なワクチンを売って救世主になる」ってのと同じ。
だから、頼るなら科学に頼るべし。
ただし、救命医療だけは絶対に必要。
普段の「QOL」とか宣ってる医療は、「人体を医療なしじゃ生きていけない状態(お客様)にするビジネスのプロ」だと捉えて差し支えない。
だって日本の医療は「対症療法」が大前提で、治し方を何一つ知らないんだから。
論理的・絶対的思考だけが人命を救う。
相対的思考は人類を滅ぼす。
感情と記憶が邪魔な時
情報を、情報として伝えたい時、なぜか感情で訴えなければ伝わらない時がある。
それは、試されていることに他ならない。
試されることが嫌いだ。
情報に、試すも何もない。情報は情報でしかない。
それが真実か虚偽かなんてのも関係ない。
主張に責任や説得力を要求されるなんてことも理不尽極まりない。
仮に、人を殴りながら「暴力はダメだ」と主張する人が居るとして、その発言の、情報としての正しさにはなんの変わりもないということ。
情報が真実かどうかは受け手が調べればいいし、それが煩わしいのであれば最初から聞かなければいい。
なぜそこで人は当人に証明を求めるのか。
情報に沿った「人の振る舞い」を求めるのか。
どれだけ口頭で説明するより、百聞は一見に如かずという言葉のように、実際に疑う余地のないほど完全に証明されなければ何も信じようともせず、確かめようともせずその努力さえも怠る。
多くの人がそう。
なんでそこまで愚かで居られるんだろう。
どうしてそんな他力本願で責任転嫁で生きて、何も気にせずに居られるんだろう。
僕は、どう頑張ってもそうはなれそうにない。
かくも生きにくい世界。
時に孤独に苛まれる。