梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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歌の力

 

歌を聴いて、癒されたり励まされたり、自分を鼓舞したり、思いっきり泣いたり、ただただ楽しんだり、歌には色んな力があると思う。

 

ただ、歌を聴いてとても悩むこともある。

 

アーティストのオリジナルの歌は、大勢に向けて発信されたものだから、無意識的に一定の距離感を保って聴いてるところがある気がするんだけど、ここで言う歌は、身近な人間の歌。

 

つまり、カラオケやカバー。

なぜそれらを聴いて悩んだりするのかというと、歌ってる人の意志をダイレクトに感じてしまうから。

 

「作品を出す」ことと「歌を唄う」ってのは、全然意味が違ってて、もちろん「音楽鑑賞」と「歌を聴く」ことも違う。

ある種、一般の人間がアーティストの曲をなぜ歌うかという理由は、音楽で生計立ててるオリジナルの作曲者の作曲動機よりも強く明確な気がする。

 

「その時」、「その場所」で、「その選曲をする」ということが、すでに強い意志の顕れだから。

そして、人の「好きな曲」や「歌いたい曲」には、それに付随する特別な過去・思い出が必ずある。

 

既存曲(作品)という「アーティストからの完成された強いメッセージ」に、カラオケやカバーして歌う人それぞれの心や思い出の全てがプラスされる、言わばその歌には「二重の人生」が乗ってるから。

 

僕は人の「考え」はわからないけど「感情」だけはとても強く感じてしまう。

その感情が、どんなものであっても、誰に向けたものであっても、関係ない。

「その人の人生」を追体験してる錯覚に陥るほど、強く伝えられてしまう。

 

もちろん、真剣に聴いてもなーんも感じない人も居るけどね。

虚栄や虚像に塗れた人の歌は、技術的なこと以外は何も感じない。

うまく歌おうとしてるだけの歌も、何も感じない。

うまいだけなら世界中にたくさん超一流が居るから、それを聴けばいいし。

 

声というのは、その人の全てを顕す。

話すスピード、高さ、イントネーション、選ぶ言葉、ブレスのタイミング・深さ、呼気の量、呼気の強さ。

 

目線や動作も考慮したらキリがないほど。

 

それらは、意識しなければ全て自然に、勝手に決まるもの。

話し方・歌い方=性格・心・命と言っても過言じゃない。

 

つまり、技術的なことではなく、その感情を経験したことがなければ出せない声ってのがある。

同じ感情のベクトルでも、その長さ、深さによっても変わってくる。

 

芸術の定義は、感情の伝達だと思ってる。発信した段階ではまだ芸術ではなくて、その感情が伝達・存在が認知されて初めて芸術になる。

 

時折、その「命の叫び」とも「全裸くらい素直すぎる心」とも言えるような歌を聴く時がある。

 

共鳴してしまう。

 

たぶん、自分は、成人するまでに、あまり人が経験しないようなクライマックス的な経験をしすぎたから、人と価値観が全く合わなくて思考や感情のプロセスやベクトルや深さも全く違う。

もちろん、アスペルガーだからこそそういう人生になってしまった可能性が高いのは否定できないけど、気付いてからの世間との擦り合わせもラクじゃないなと思う。

 

───脱線したけど、こんな自分が、その「ありのままの歌声」ってのを聴くと、例えばその感情の種類が寂しさや切なさや後悔や愛情だった場合、その深さを理解して共鳴してしまう。

この人の過去に一体、どんなことがあったんだとか、その時にどういう行動を取ったのか、何を考えてたのか、そしてこの人がこの曲を「今」選んで歌うその意味とはなんなんだろうとか、過去に対して、今、何を思うんだろうとか、もう完全に歌ってる本人の感情と一致してしまって、依存的になってしまう。

 

そう、依存的になってしまう。

居ないからね、そういう歌が唄える人って。

プロでも、なっかなか居ないから。

というか、あるベテランのアーティストの方でさえも「うまい人はたくさん居るけど、伝わる歌を唄える人はプロシンガーでもそうそう居ない」って仰ってたほど。

 

だから、そういう「貴重な歌」を聴くと、その人に依存しそうになる。

「異常な知的好奇心」というダメな癖が出てしまって、強烈に執着しそうになる。

 

老若男女は問わずだけど、関係性によってはトラブルになりかねない。

 

そんなこんなも含めて、歌の力ってのは、本当に壮大で素晴らしいものだと思った今日この頃でした。(ムリヤリまとめた)