梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

アスペと性愛と抑うつ

 

もう7年くらい前に、抑うつだったけど、知らないうちにそんなことも忘れて、いつしか人並みの感情を取り戻したと思ってた。

 

だけど最近、10年以上も僕に片想いをし続けてる人が、実際に僕を目の前にして、喜びと恥ずかしさと緊張と興奮で取り乱してるのを見たんだけど、特に何も感じなかった。

本来はこの上なきありがたさを感じるはずなのに、僕の心は至って冷静というか、何も感じていなかった。

「これはとてもありがたいケースだ」って、どこか他人事で、薄情な感覚だった。

 

抱き着かれても、せがまれてキスをしても、何も感じないし心が微動だにしない。

 

好きとか嫌いとかいう次元じゃなくて、物理的に性対象の体が触れれば、たぶん普通の人なら、恥ずかしいとか、気まずいとか、ヤりたいとか、なんかそういう感情をごく僅かでも感じるものだと思うんだけど。

 

でも、全く、微塵も、一瞬も、何も思わない。

 

ただ、その長年の片想いに対する感謝と、なるべく報われるように1日応えてあげようっていう、理屈だけで相手の感情を捉えてしまって、その冷徹さに自分自身が一番驚いた。

 

そもそも僕はセックスが嫌い。人の粘膜に触れるってめちゃくちゃデリケートでリスキーで神経使うし、相手の機微を常に観察して、その時その時に適切な選択をしなきゃいけなくて、脳が疲れる。

それに、粘膜に界面活性剤を塗りまくるなんて信じられない。科学的に考えて、長期的に皮膚や粘膜を破壊してるのに。なんで相手の体を傷付けてまで快楽を求められるのか、理解に苦しむ。

 

だから、何かそういう雰囲気になりそうな時は、僕はハッキリ「セックスは好きじゃない」って伝えるし、今回もそう言って納得してもらった。

 

性行為って、ちょいちょい「興奮してるフリ」をしないと、こっちが冷静にしてるとつまらないって人まで居る。

確かに片方だけが快楽に身を委ねて取り乱してるのって、見た目はアンバランスだってのは解る。

 

でもよくよく考えたら、感覚神経の過敏さとか体の仕組みからして、男性性は花火で、女性性は夜景やライティングショーだし、快楽の表現に大きな差があって然るべきとも思うのね。

 

それで「気持ち良くてもつまらなさそうなのはつまらない」って言われるのは心外で、こちらは相手を幸せにしたいだけだから。なんならそれこそが至高のmy pleasureなわけで。

 

僕のことを幸せにしたいと思うなら、ちゃんと自分を幸せにしてください、幸せを感じてください、そのために生きてください、とさえ思う。

 

以上のことから、初めは今でも抑うつが続いてたんかなーと考えてたんだけど、たぶんそうじゃなくて、自分の中で何もかもを自己完結し過ぎてて、誰に何をしてもされなくても、ブレないんだと思う。

 

自己肯定感がありすぎて、言わばもう生きてるだけですでに幸せで、命があることに毎日感動して、歓喜してるから、他はなんでもいいってことなんだ。

 

そして「○○じゃないと幸せじゃない」とか「○○すれば幸せでしょ」って言葉は、自分の幸せを否定されてるのと同意だから、どれだけ好意を寄せられ慕われても、そういう言葉を聞いた瞬間に「相手の自己肯定感の欠如を満たすために自分の幸せが消費されている」と気付いてしまって、ニセモノの慕情に一気に冷めてしまう。

 

人同士の関係は、求め合いだと破滅で、尽くし合いが無限の発展だから、相手が喜ぶことを互いにすればいいだけなのに、自分で自分を幸せにできない人同士が、互いの無い物ねだりで求め合って傷付け合う=恋愛なんて形は、茶番が過ぎるだろう。

 

 

 

───もし、尽くし合い・与え合いの関係が築けたら、僕の感情は、理性を超えられるんかな。愛の受け取り方と、喜び方を、思い出せるんだろうか。

 

非常に興味深い。