死は救済か
ツイッターのTLで「死は救い」というツイートを見た。FFXのシーモアかよとは思ったけど、真面目に考えた。
偶然とか別の時間軸を証明できなきゃ、生きてる中で起こる喜劇も悲劇も必然しかない。
例えば、産まれてすぐ死んじゃった赤ちゃんが居たとして「死ななかった場合の世界線」なんてシュタゲばりのパラレルワールドが存在するかどうかは証明できないから、暫定的に現実の1本道しかなくて、やっぱり必然。残酷だけど。
で、その赤ちゃんは、不幸だろうか、幸福だろうか。
本人のみぞ知ることだから確認はしようがないけど、わかることは、「死ぬのは大体どこかが痛いか息が苦しいかのどちらか」ってことくらいだよね。
物理的な痛みや苦しみを不幸とするなら、死はそこから完全に解放されるわけだから、ある意味では救いになる。
なのに「産まれてすぐ死んじゃうなんて、かわいそう」って意見が圧倒的多数なのは、生きることが幸せだと思ってるから。
いや、死ぬことを不幸だと捉えてると言った方が正確。そこに矛盾が生じる。
じゃあ痛く苦しい状態で生きてるのが幸せ??
きっとそうじゃない。というか、そんなことを悠長に考えてられるほどの余裕もないはず。死ぬほどの苦痛は、理性なんてとうに壊れてるはず。
そう、本当に不幸なのは、理性を失うくらい痛くても苦しくても、死ねない状態のこと。
人によっては、生きることがつらすぎて死を求めて、でも後ろ髪引かれる何か未練があったり死後への恐怖があって死ねない、でも苦しい、ってな状態が延々と続いたりする。それこそが、不幸。地獄。
なので、倫理的なことを抜きにすれば、「死は苦痛からの救済」で間違いない。
ただ僕は、死が肉体的苦痛からの救済だとは思うけど、精神的苦痛の一番の救済が死だとは思わない。
なぜなら、精神世界だけは自分の完全なる自由だから。どうにでも考えていい、素晴らしく無限で自由な世界だから。
もっと具体的に言うと、楽しさや嬉しさも、不安やつらさも、どちらも100%妄想だから。
どうせ妄想なら、楽しい妄想しとけばいいのに、起こってもない未来を不安視して、確かめてもない人の悪意を決め付けて傷付いて、独り喜怒哀楽ショーを始める。
もちろん僕も経験ある。
そんな時、自分に「不安なのは平和で退屈で臆病でバカだから」と言い聞かせる。
必死で生きてる時、何かに全力で打ち込んでる時、不安も憎悪もない。そんなもん抱く余裕もない。
だから、精神的苦痛だけは、100%己の意思次第で救済・昇華できるものだと確信してる。……なかなかうまくできないけどね……。
話逸れたけど、もっと突っ込んで思考を巡らせると、最初に記した「因果」の因はどこにあるのかって話になってくる。
それ書いてると終わらないから、触りだけ書いて終わる。
人生において、不可抗力のイベントが3つある。
産まれる、生きる、死ぬ、この3つ。
どこに産まれ、いつ産まれ、誰の元に産まれ、誰とどう生きて、いつまで生きて、いつ死ぬか、どう死ぬか。
この、一見ランダム要素しかないイベントも、当然、この世で物理的に起こってることだから、全て因果の法則から逃れられない。
今は解明できずとも、不可逆の時間の流れにおいての因は、必ず過去にある。
……偶然の存在が証明されるまでは。