梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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我慢と頑張るの違い

 

 

 

我慢する人、耐える人って、自分の命や時間の価値を1nmも知らない。というか、忘れさせられた人なんだよ。
前の自分もそうだったし。

 

勝手にハードル作って、勝手に選択肢も逃げ道もなくして、見栄張って体裁を気にして、勝手に耐えて自分を追い込んで「どうせ世の中は薄情」「誰も助けてくれない・頼れない・ひどい奴ばかり」って不幸の責任を外に丸投げして、死を選ぶ。
バカだった。

 

これが人によっては、対象が自分じゃなく他人に向かうわけで。

 

つまり何かを我慢する・させる、許さないってのは、最終的に殺人その他事件に直結する。

抑圧するから爆発する。


仕事にせよ学校にせよ、例えやめちゃいけないって誰かに言われても、イヤがる人に何かを強制や強要するのはそりゃつまり犯罪だし、実は意外に自由はあるんよ。

金のためだけに働くなら、辞めて生活保護受ければいい。
そもそも、金が欲しい人なんて誰も居ないんだよ。
何か受けたいサービスや手に入れたい物があって、そのための手段としてお金を選んでるだけなんだよ。

「仕事が精神的にしんどくて〜」って精神科行ってから辞めりゃ、会社都合で失業保険も貰えるし、うつ認定されりゃ障害年金もらえばいい。
ちゃんと生存権が認められてる素晴らしい国なんだよ。

「権利を主張するなら義務を果たせ」ってワケわかんないこと言う人も居るけど、サッカーの話をしてる時に野球のルール脳で入ってくんなよって話なんだよ。
権利は主張するもんじゃなく、元々あるもんを明文化しただけのもんなんだよ。


んで、これは障害や病気で後ろめたさや悔しさを感じてる人にも言えるけど「ダメな人間・恥ずかしい人間」なんて居ないからね。


多くの人が「それはダメだ・おかしい・恥だ・クズだ」って思っても、たった1人でも「別にいんじゃない?」って思ってたら、それは絶対じゃなく相対なんだよ。

つまり、教育という集団催眠か洗脳か刷り込みの結果、そういう善悪感の比率になっただけ。

全人類に完全に共通することだけが絶対で、それに比べたら後のことは寝言みたいなもんなんだよ。

植物人間になっちゃった人にだって、素晴らしい価値はあるし、意味はあるし、愛されて然るべきなんだよ。
むしろ死んでも愛されてる人って居るじゃん。
つまり生きてるか死んでるかも、どう生きてるかも、価値の高い低いは無関係なんだよ。存在そのものの絶対的価値に、高いとか低いって概念がなくて、一元的なものなの。

 

「自分は今生きてる」という真実を、愛するために生きないと、苦しいだけの人生になっちゃうよ。

やりたいことを全力でやる、それだけが「頑張り」で、あとは「我慢・忍耐」だから。

そして、前提として、別に頑張らなくてもいい。
極論、死んでもいい。


なんでもいいから、自分をがんじがらめにしないで。全ての「イヤだ!苦しい!つらい!」から、全力で逃げて。


監禁されてない限り、みんな100%自由だから。