梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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サイダーだけで生きられるか

 

 

‪今回、サイダーチャレンジして確信したのは、栄養不足で何がつらいって、体がしんどいとかじゃなくて、思考がどうやったってネガティヴに向くってこと。‬
‪何もイヤなこととか辛いことは無いはずなのに、沈む。‬

‪サイダー500mlで約200kcalだから、1日に約5L飲むとかムリぽよやん。1.5Lが限界。‬

 

‪最初は、サイダーによる高血糖から、相対的な低血糖になって沈んでるんやと思ってたけど、不可逆的に沈んでいったから、恐らく栄養不足。‬
‪体脂肪がほぼないから(7%くらい)、非常用エネルギーがないってのも大きい。‬

 

そしてたんぱく質も摂らない縛りやったから、ケトン体も足らない。

そりゃ保たんわ。

 

‪みんなも、炭水化物か脂質+たんぱく質でちゃんと充分なカロリー摂りましょう。‬

ビタミンは人によっては毒なだけだから、なんとも言えんけど。

 

‪僕の場合は、日頃から塩茹でパスタ100gをほぼ1日1食しか食べないのに、軽い筋トレはほぼ毎日、ジョギングする時もあるから、慢性的に栄養不足なのもあったんかもやけど、サイダーチャレンジ開始から48時間くらいでポテンシャルが下がってきた。‬

‪予め満腹にしとけば、1週間は絶食できそうな感じもしたけど、満腹そのものの体への負担が大きいし、お勧めしない。‬


あと吸収と代謝の能力は個人差があるから、同じ量を食べても栄養になる量が違ったりもする。

だから、平均とか目安ってのに惑わされず、自分の心身と向き合って、相談しながら、食と付き合ってほしいと思いまつ。

 

 

幸せを拒む人々

 

‪「あなたが最高に幸せになるにはどうしたら良いか」の話で、なぜか僕の話になること自体、論点ズレてて困る。‬

‪「失う可能性のある(相対的な)幸せ」の話をしてるんじゃなくて、「100%揺るがない(絶対的な)幸せ」の話をしてる。‬

‪それはあなたが自己肯定を極めるか否かのみに懸かってるよってのが、なかなか伝わらん。‬

 

説得力や信ぴょう性とか、そういう次元の話じゃなくて、100%のことしか話してないのに、否定してきたり論拠を求めてきたり。

人に対して高圧的な態度でマウント取って悦に浸ってるうちは、心が乏しいし惨めだし苦しいはずなんだけど。

怒ったらエネルギー使うし、それで産まれるものって愛情や信頼の喪失だし、なんで怒ってるんですか?って単純に疑問。

何か目的があって、手段として怒りが最善の方法になるケースであれば仕方ないけど、今のところあまり思いつかない。

 

怒りや暴力が最善の方法になるケースは、正当防衛の時だけ。しかも復讐じゃなくて、まさに自分が相手の怒りや暴力に直面して被害を受けるかどうかの、まさにその瞬間の正当防衛。

 

それ以外で、それらを手段にするのは不適切で、不適格で、不適当。

まして目的にするのは、破滅を望んでるとしか言いようがない。

 

否定するのは否定だけでいい。

あとは肯定だらけにすればみんな幸せパラダイス。

 

僕的には、自己肯定を極めることすら第1ステップだと捉えてるんだけど、そのステップすら伝えられなくて、もどかしい。

 

自己肯定を極めれば、自然に他者肯定できるようになる。

 

でも、他者肯定を極めると、世の中の大きな大きな闇が見えて、その問題の巨大さに気が遠くなりそうになる。

なにせ、人間の幸せとは逆行してるから。

 

他者を肯定できるようになればなるほど、自己否定する人の多さに気付く。

潜在的に自己存在を肯定できてない人の多さに、人類そのものの危機を覚える。

 

だから、その逆風に負けずに、自分も人も肯定し続ける戦いは続く。

 

否定や抑圧は、100%破滅に繋がってる。

 

人類にとって破滅していいのは人類の存在否定だけだ。

 

だから、自分の絶対的価値を知って、それをまず愛する。

目指すべき境地。

今すぐ1秒で出来ることなのに、みんなしないのは、教育という刷り込みと洗脳が濃すぎるから。

 

気付いてほしいなぁ。

一人ひとりの存在の尊さに。

 

 

悪意と失敗に対する目眩

 

みんなそうだと思ってたんだけど、どうやらこれもマイノリティらしい。

僕以外の、周りの多動やASD(アスペルガー)気質の人にも多く共通してるから、何かしら関係あるんだろう。

 

明らかに何か悪意や敵意、刃を向けられた時や、それに繋がりかねない失敗を自分がした時、する可能性がある時など、激しい目眩がする。

 

目眩というか、もはや気絶寸前になる。

殴られたり叩かれたりした直接的な痛みより、もう、脳がどうにかなってそうな吐き気と目眩の方が強烈で、危険を感じる。

 

視界の周りからチカチカと星が降ってきて、視界全体が青くなってく。

血の気が引いて全身が冷たくなってく。

痺れて触覚がなくなる。

あれが続くと「電車の脱線事故を目撃しただけでショック死した少女」みたいに、完全に意識消失するし、命の危険を感じるほど。

 

どうしてこうなるのかいろいろ考えてみたら、どうやら恐怖とかよりも、人の敵意や悪意っていうものは「かなり根が深い」という事を理解しているから、それを変えるには途方もない労力や時間が必要だ……と無意識に感じるからっぽい。

文字通り「気が遠くなる」というやつ。

 

だけど現実的にそれが起こってる状況で、長いスパンで考えることは許されず、表面的に繕って切り抜けるしかなく、刹那的には「根本解決法のない問題」に直面してる状態と言える。

 

解決できないのに避けられない問題を押し付けられたり、考える時間を与えられないのが、とても苦手。 暴力じゃん。

アスペルガーが全員同じ捉え方かは知らないけど。

 

こちらに悪意が全くないのに、敵意を向けてくるということは、そもそもその人自身の自己肯定感が低くて感情をコントロールできてないからで、本人も幸せなわけないんだよ。

誰も幸せにならない行為なんだよ。

 

その事実が哀しくて哀しくて、問題の根が深すぎて、相手の生きてきた境遇に対しても同情するし不憫に思うし、かと言ってニコニコしながら攻撃を受け続けるわけにいかないし、そこで論破したらしたで相手の精神が壊れて死んじゃうかもしれないし───というようなことを、「考える前に考えてる」みたいな。

 

みんながみんなを大切にし合う、という本質的な考えというか、価値観というか、命というか、うーーん……なんと表現していいかわからんけど、考えるより先に、それが当然で自然で、人類のあるべき姿でしょって前提?で生きてる感じ。

幼児期からなんの疑問も持ってないし、その感覚は変わらないんだよね。

 

だから、同種の個体同士が、命に関わらないことで敵意を剥き出しにして攻撃をし合う、みたいなその惨状が、この世の終わりにさえ思えてくるのかも。

命の価値を忘れた人間に、絶望を感じるのかも。

 

本当に3歳くらいからその感覚は変わってないから、理屈じゃないと思うんだ。

大人になるにつれ、その感覚を伝えようとすると理屈っぽくなってしまうんだけれど。

 

言葉で表現できない尊大な価値が、命とか心にはあって、それは否定とか肯定とか、人間の理解や意識とかの範疇を遥かに超えていて、ほとんど誰もそれに気付いてなかったり、忘れ去ってる。

 

僕らは確かに存在する大きな法則の下に生きていて、100%抗えない。

自分の意識だけで心臓は止められないってことだけ考えても、簡単にわかること。

 

 

簡単にわかることだらけなのに、誰も考えようともせず、自分の機嫌を自分で取れずに敵意や悪意を他者に向けて、そうして他者を消費することで埋まらない穴を埋めようとしている。

「あいつのせいで」も「あいつのために」も、どちらも消費だし、責任転嫁だし、他力本願なんだ。

 

そういう「どうしようもなさ」と、それでも「みんなが幸せな状態」を目指したい・維持したい思いと、現実的に磨耗していく心身という三つ巴が、思考能力のキャパをオーバーして脳をシャットダウンさせようとするんだろうという結論に落ち着いた。

 

泣いたまま、怒ったまま、倒れたまま、放置されていい人なんて1人も居ないから。

愛されない人が、愛せない人になってくわけだし。

 

生きるって、むつかしい。

 

「特別」という「差別」


‪差別しちゃいけないという教育を受け続け、その先に待っていた社会はというと、法律からして差別だらけで、成人して10年経っても尚、そのウソを受け入れられずに居た。


‪その1つが、一夫一妻制。‬


‪夫妻でなくても、恋人・パートナーと言えば当然1人であり、特別であり、その他の人もみんな好きだと言おうものなら、浮気だ不倫だセフレだ汚らわしい疎ましい下劣だ八方美人だと、容赦ない集中砲火を浴びる社会。‬


‪1人だけを決めるということは、その他を排除する、はたまたその1人より全員が劣っていると確定させることに他ならない。‬
‪これは、間違いなく差別なわけで。‬



‪ずっとそれを受け入れることができなくて、人それぞれ違った魅力があって、良さがあって、一人ひとりが一人ひとりしかいない貴重な存在だって真実を否定することなんてできなくて、思春期のころもよく戸惑っていた。‬


‪でもようやくわかった。‬
‪

キーポイントは「時間の流れ」を意識することだった。‬


まず、
「私を消費してもいいよ。でも私にもあなたを消費させてね」
っていう許容が、支え合うってことなのは間違いなくて。
ここで気をつけないといけないのは、自分だけが相手を消費したい・されたいと望むのは、実はどちらも一方的な消費なんだ。

 

具体的に言うと、献身的に尽くして尽くして尽くしまくることは、確かに自分を消費しては居るけれど、立場が逆転することを拒めば、それは一方的に相手を消費してるのと同じだよ、ということ。
「尽くすために相手を消費してる」わけだ。

 

消費する・される、このどちらも、比率は違えど精神的・肉体的にお互いに得られる何かがちゃんと生じることを、予め意識・理解できてることが大切。共通認識だね。相互理解。相互利益。

 

ただ、ここまでなら「1人に絞る理由」にはならないんだけど、着目すべきは「今」という時間。


 

「いつか」ではなく「今」、暫定的にそのどちらも許し合うことができる人なのか。
居なければ、発見次第、その人がパートナーになり得るわけだ。


許容し合える度合いと共通認識の度合いが、同じ水準にある者同士こそが、パートナーになり得るんだ。


つまりそれは、物理的に差を付けてるんじゃなくて、あくまで精神という、縛られずに変化するものの一致なんだ。


ここで、僕は反省した。


僕は「人を物理的・俯瞰的にしか見ていなかった」し、「自分という存在を排除した状態」でしか考えてなかった。
誰もが唯一無二の存在で、等しく、差をつけるべきではないってのは、そりゃ人としての絶対的価値の話であって、そうなれば当然みんなが大切にされるべきだという話になる。
基本的人権の尊重だね。


でも、人間は、衣食住だけを見ても1人で生きられないし、必ず誰かからの愛を享受して生きている。
誰かに欲を満たしてもらって生きている。
そう、生きている。時間が流れている。


その「当事者性」を見失ってしまってた気がする。


だから、1人を選ぶというより、その精神的な相互一致があれば、必然的に選択の余地は暫定的になくなるということなんだ。
当然、それは奇跡的なことで、世に蔓延る色恋沙汰は、到底その領域に及ばないケースが多いとは思う。


LGBTも含めて、恋愛も友情も、自分の何かを満たすためって前提では成立しにくい。


……しにくいと書いたのは、無意識・無計算でもたまたま自分の欲望が相手の利益になるケースもあるから。


逆に、奇跡的な精神の一致が、数人起こるケースも稀にある。その場合、ある意味「人類愛」みたいな現象で、恐らく冒頭で書いた問題には発展せず、全員がその関係性を許容しているケースが多いように感じる。


───無意識・無計算で相互利益が生じる相手と共に過ごす関係性を「恋人」や「 友人」と呼ぶなら、次はその相互利益を意識・計算できるようになることが「パートナー」や「親友」になるためのステップアップなんだと、理解できた。


そして、今まで自分がしてきたことは、相手の利益だけを考えて、許容量や共通認識の部分を無視することに他ならなかった。


───ただ、これがわかったところで、僕はASDという自己完結型で、相手のために自分を消費することに慣れては居るけれど、自分が相手を消費することは、とんと経験がないから、また1つ難題ができてしまったわけだけれど。

 


そう、一番苦手な「距離感」の話だね。
………あぁ、頭がクラクラしてきそうだ。(((((

 

 

アスペと性愛と抑うつ

 

もう7年くらい前に、抑うつだったけど、知らないうちにそんなことも忘れて、いつしか人並みの感情を取り戻したと思ってた。

 

だけど最近、10年以上も僕に片想いをし続けてる人が、実際に僕を目の前にして、喜びと恥ずかしさと緊張と興奮で取り乱してるのを見たんだけど、特に何も感じなかった。

本来はこの上なきありがたさを感じるはずなのに、僕の心は至って冷静というか、何も感じていなかった。

「これはとてもありがたいケースだ」って、どこか他人事で、薄情な感覚だった。

 

抱き着かれても、せがまれてキスをしても、何も感じないし心が微動だにしない。

 

好きとか嫌いとかいう次元じゃなくて、物理的に性対象の体が触れれば、たぶん普通の人なら、恥ずかしいとか、気まずいとか、ヤりたいとか、なんかそういう感情をごく僅かでも感じるものだと思うんだけど。

 

でも、全く、微塵も、一瞬も、何も思わない。

 

ただ、その長年の片想いに対する感謝と、なるべく報われるように1日応えてあげようっていう、理屈だけで相手の感情を捉えてしまって、その冷徹さに自分自身が一番驚いた。

 

そもそも僕はセックスが嫌い。人の粘膜に触れるってめちゃくちゃデリケートでリスキーで神経使うし、相手の機微を常に観察して、その時その時に適切な選択をしなきゃいけなくて、脳が疲れる。

それに、粘膜に界面活性剤を塗りまくるなんて信じられない。科学的に考えて、長期的に皮膚や粘膜を破壊してるのに。なんで相手の体を傷付けてまで快楽を求められるのか、理解に苦しむ。

 

だから、何かそういう雰囲気になりそうな時は、僕はハッキリ「セックスは好きじゃない」って伝えるし、今回もそう言って納得してもらった。

 

性行為って、ちょいちょい「興奮してるフリ」をしないと、こっちが冷静にしてるとつまらないって人まで居る。

確かに片方だけが快楽に身を委ねて取り乱してるのって、見た目はアンバランスだってのは解る。

 

でもよくよく考えたら、感覚神経の過敏さとか体の仕組みからして、男性性は花火で、女性性は夜景やライティングショーだし、快楽の表現に大きな差があって然るべきとも思うのね。

 

それで「気持ち良くてもつまらなさそうなのはつまらない」って言われるのは心外で、こちらは相手を幸せにしたいだけだから。なんならそれこそが至高のmy pleasureなわけで。

 

僕のことを幸せにしたいと思うなら、ちゃんと自分を幸せにしてください、幸せを感じてください、そのために生きてください、とさえ思う。

 

以上のことから、初めは今でも抑うつが続いてたんかなーと考えてたんだけど、たぶんそうじゃなくて、自分の中で何もかもを自己完結し過ぎてて、誰に何をしてもされなくても、ブレないんだと思う。

 

自己肯定感がありすぎて、言わばもう生きてるだけですでに幸せで、命があることに毎日感動して、歓喜してるから、他はなんでもいいってことなんだ。

 

そして「○○じゃないと幸せじゃない」とか「○○すれば幸せでしょ」って言葉は、自分の幸せを否定されてるのと同意だから、どれだけ好意を寄せられ慕われても、そういう言葉を聞いた瞬間に「相手の自己肯定感の欠如を満たすために自分の幸せが消費されている」と気付いてしまって、ニセモノの慕情に一気に冷めてしまう。

 

人同士の関係は、求め合いだと破滅で、尽くし合いが無限の発展だから、相手が喜ぶことを互いにすればいいだけなのに、自分で自分を幸せにできない人同士が、互いの無い物ねだりで求め合って傷付け合う=恋愛なんて形は、茶番が過ぎるだろう。

 

 

 

───もし、尽くし合い・与え合いの関係が築けたら、僕の感情は、理性を超えられるんかな。愛の受け取り方と、喜び方を、思い出せるんだろうか。

 

非常に興味深い。

 

 

 

否定を否定するという矛盾

 

‪僕は「否定は100%破滅への扉だからダメだ」が持論なんだけど、この持論自体が「否定を否定してる」という二律背反(自己矛盾)にももちろん気付いていて、ずっと悩んでた。‬

 

‪だけど、よくよく考えれば、予め何かしらの否定が既に存在しているという前提の話だから「発端の否定を否定する」なら矛盾が起こらない事に気付いて、悩みが解消された。‬

 

願わくば、否定を肯定できるようになりたいけど、どれだけ理屈や感情をこねくり回しても、否定の行く先は滅亡や破滅しかなくて、また新たな悩みができた。

 

基本的に、大大大前提として、生きてるってことそのものが、存在を肯定して(しまって)るわけだから。

 

ただ、存在を否定することと死を肯定することは、似て非なるもの。

 

存在する生物はいつか死ぬ。=死の存在を肯定してる。

存在を否定するということは、死を否定すること。100%逃れられないことから逃れようと思うこと。真理に逆らおうとすること。戦わないこと。負けること。自分の命や心を殺すこと。時間をゴミ箱に捨てること。

 

だから人は不老不死や美貌や若さに執着して、時間の流れに逆らおうともがき苦しむ。死の存在を拒む。目をそらす。

 

そしてもっと恐ろしいのは、死を否定すること即ち生を否定することと同義ってこと。

 

生きてることの価値や時間の価値に一切気付けなくなってしまう。

 

そして最終的に、「死は誰しもに訪れ、自分も例外ではない」という真実を受け入れざるを得なくなった瞬間、そこで初めて自分の「虚像の人生」を悔い、嘆く。

気付かずに生涯を終える人も多いかもしれない。

 

だから、対象がなんであれ、肯定を否定することは危険だ。

100%、誰かの不幸をもたらす。誰かの苦悩をもたらす。誰かの心がざわめく。

 

存在してる真実を否定する思考や言動や行動を、僕は否定する。

 

そして、存在してる真実を、全肯定したいと思う。

 

 

アイデンティティを捨てたい

 

僕らが人と対峙して、その人がどういう人なのかを判断する材料として、いろいろある。

 

ステータスというやつだけど、国籍、生まれた土地、貧富、学歴、見た目の美醜、職業、役職、性別、趣味、五感の好き嫌い、特技、障害や病気や健康……etc。

 

僕自身は、このステータスどころか、自分は誰か、相手が誰かも、余計な情報だと感じる。

 

ずっと前に消したツイッターのアカウントでも散々言ってたことだけど、情報の真実性に、信憑性や説得力なんて言葉は無用なんだよね。

 

真実かどうかは自分で突き詰めればいいし、誰かの言動や行動を鵜呑みにしたり期待して、それと違ったからって、別にその誰かには責任も何もないし、100%間違いないことを言いますと宣言してるわけでもないはずなんだよ。

 

いや、仮に100%絶対的な真実を言いますと予め言われてても、結局はそれを鵜呑みにするか自分自身で確かめるかは自由なんだから。

 

全ては「情報」なんだ。

そもそも、相手がどんな人間であるかを判断する必要性もない。

 

例えば「理屈が通じない凶悪殺人犯かどうかは判断できないと危ない」などと言われたとて、それを判断できたところで、実際に襲われたら自分の腕っぷしが強くないと勝てないし、殺人犯=自分に殺意を持ってる、ってわけでもない。

 

これは、全てに当てはまること。

「偏差値の高い大学に行ったから頭がいいはずだ」

「大企業に勤めてるからお金持ちなはずだ。優秀なはずだ」

「親が頭脳明晰だから子どもも賢いはずだ」

「犯罪者の家族だから危なそうだ」

「障害者は健常者より劣ってるはずだ」

「同性愛者は同性みんな好きなはずだ」

「年配者だから達観してるはずだ。弁えてるはずだ」

「子どもだから大人より劣ってるはずだ」

 

言い出したらキリがないけど、こういう固定観念や「立証のしようがない相対的な常識」みたいなもんは、全て、真実にとっては邪魔でしかないし、視界を曇らせる因子なんだ。

 

僕らは、生きている以上、意識せずとも幸せや悦を求めているわけで、そのために情報を取捨選択する必要があるのに、どうして自分が苦しいとか嫌だとか怖いとか不安だと感じる情報に、わざわざ自分から近寄ったり捨てなかったりするのか。

 

社交辞令や「気を使ったウソ」も人生や命や時間の無駄遣いだし、何かを嫌ってる時間や傷付いてる時間ももったいない。

 

───というようなことは、人類共通の、自分を幸せにするための最速かつ最良の考え方だけど、きっと僕がネームバリューのある有識者だったとしたら、もっと簡単にこの考え方を受け入れられる人が居るんだろうと思う。

 

つまり、僕が誰であるか、あなたが誰であるかなんて本当にくだらないフィルターで、この世に存在する万物は情報なんだから、それの価値、良し悪しだけを見るようにすれば、全ての人が幸せになるのになぁ、と。

 

自分が自分であることは、奇跡的な必然で幸せなことではあるんだけど、それはもうわかったから、次はそれを人に「あなたも宇宙一の価値があって、その存在だけで愛されて然るべきなんだ」と伝えたいんだけど、そうなると自分が自分であることが他人のフィルターになってしまって、本当に歯がゆい。

 

梵我一如、一元論は、どんな人でも1秒で世界一、否、宇宙一幸せになれる真実なのに。