梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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師走に見た変な夢

 

このブログとは別に、自分のメモ帳に夢日記みたいなのをつけてる。

 

何ヶ月〜何年かに幾度か、変わった夢を見る。セリフや登場人物の顔、情景、物の配置、細かくカラーで鮮明に覚えてる時がある。

そういう夢を見た時は、起きたら決まって寝汗をかいてるか、動悸が激しいか、大号泣で嗚咽してる。

そして決まって、自分の中の漠然とした疑問が明確化したりする。

今回もそんな夢だった。

 

 

 

───顔も名前も知らない夫婦と、どこぞの家のキッチンみたいなとこで、仲良く立ち話。

僕はなぜか泣きながら、90度お辞儀して、お互いを助け合って生きてくださいとお願いしてた。もう、懇願。嗚咽しながら。

目が覚めても本当に号泣してた。

 


詳細に言うと、

「お互いの足りない所や不満な所を言うより、そばに居ることや与え合えることに感謝し合って生きていってください」だったと思う。

 


夢の経緯としては、そのご夫婦と他愛もない話をして本当に平和な雰囲気で談笑してた時、夫婦仲を褒める感じで少し冗談で茶化した(冷やかした)時に、一瞬だけお嫁さんの顔だけが曇って、悲しそうな、苦い顔して斜め下を見たんだけど、それで「仮面夫婦」ってことに気付いてからの流れ。


目が覚めてから、色々考えてわかったのは、そういえば自分自身、両親が仲睦まじくしてる所を見た事がないなと。

昔の父はひどい人だったし、それが理由で今でも母は精神を病んでいる。かなり改善されたけど、まだまだつらそう。

 

今でこそ、父は自分が発達障害だってわかって気をつけるようにはなったけど、明らかに価値観がマジョリティから逸脱してる以上、というかそれを変えることがほぼ不可能な以上、よくある「仲良し」からは程遠い夫婦関係はこれまでもこれからも続く。

 


そんな二人のすぐ近くで、歳が一桁の頃からずっと仲介役しつつ、時に直接的な被害を受けつつ育ってきたことが、自分の中である意味、人に求めるものの大きな指標になってるのかもしれない。

別の事情で一人暮らし始めてから、そういったことによく気付く。

 


仲良く、助け合って、愛し合って、本当に互いが尊重し合う人間関係。

ただ存在に感謝して、感動して、いくらでも与え合いたくなる関係。

 


それは、夫婦や恋人だけでなく、全ての関係性で目指したい、そうありたい、というか本来はそれがあるべき姿なんだと。

 


人は、究極的には「悦」を目的に生きてる。

自分や他人や物、どんなものにでも「ハードル」を課せば課すほど、その悦の量はどんどん減ってく。反比例。

 


つまり、日本の教育そのものが減点法だから、何に対しても「社会が作り上げたステータスの正解」を前提に評価して、減点してしまう。

 


だけど、目の前に正解はある。

目の前というか、自分の中に。

自分も人も、みんなも、この世に一人だけの貴重で尊大な価値がある存在で、それを無視したら何をどんだけ彩ろうと偶像・虚像で。

 


現実的な、金の話とかは食品ロス問題だけ取って考えてもすぐわかるから割愛するけど、自分も人も、産まれただけでOK、生きてるだけで100点ってことに気付かないとずっと苦しいししんどい人生になる。信じる信じないとかじゃなく、もう、歴然たる真実が完全にあって、それに気付こうよって話。

 


今でこそ理屈で理解できたけど、小さい頃から抱いてたこの感覚をずっと明文化できず、常識との擦り合わせに四苦八苦して、根拠を胸張って提示できなかったが故にその都度自分を押し殺して、黙って、燻らせてきた。

 


恋愛で誰か一人を選ぶのも、何をどこまで求めるべきかも、本当に自分にとって難しい。

互いの存在をまるごと肯定した上で、求められることを求めて、与えることが与えられることだと理解した人間同士じゃないと、きっと自分は快く求めることはできない。

 

ギブアンドギブで誰にでも平等に全力で向き合うのは、八方美人だけど、中途半端に自分の欲でそうしてるわけじゃなく、それが人間の本来の姿というか、自然体だから。

時に、本人以上に本人のことを真剣に考えて悩んでる時も多い。老若男女問わず。


誰にも理解されないとか、自分を好きになれないとか、そんなくだらないこと(敢えてこう表現する)で自分の巨大すぎる存在価値を否定する権利は、自分にも誰にもないから、誰にも苦しんでほしくない。

 


そういう切願の根本理由が、やっぱり自分の育ってきた環境や境遇にあるんだなと再認識した、不思議な夢だった。