梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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対人の葛藤と総括

 

 

 

 

深く踏み込むか、断つか、そんな二極化した考えしかできなくなったのは、何もかも自己完結し過ぎて、誰との浅い繋がりにも意味を見出せなくなったから。

ツイッターだってブログだって、LINE@の音楽だって、自分としては本当は何もしなくても問題ない。

 


ただ生きてるだけで、心音の響きだけで、いつでも何度でも感動できるようになってしまったことは、何より幸せであると同時に、相当な異端で「普通」とかけ離れた感覚だとも思うようになった。

変わる幸せと変わらない幸せ、両方を知ってしまった。

全てのことを肯定もできるし否定もできる、ここまで来てしまった。

 


一時期は、強がりや意地かとも考えたけど、実際にいろんなやりたいことを実行に移そうとした時、絶対に一人だけでは何も成し得なくて。

巻き込む人に対しての責任を最後まで持てるか、その覚悟があるか、体は「もつ」かを冷静に考えたら、今の自分にできることは「自分を穏やかに生かすために努力する」に終始する。

何度考え直しても、そこに行き着くだけだった。

 

 

 

人との繋がりを深くするにも、新たな繋がりを作るにも、そのリスクが大きすぎて。

自分だけ関係性の先が見えてしまう、自分だけ相手の芯を見抜いてしまう孤独感と、わざわざリスクを冒してまで渇望するものがない無欲さが、自尊心の欠けた現代の誰かを幸せにすることなんて絶対にないってわかってる。

 


この無欲が、臆病なのか真意なのかは、その時々で変わる。

無責任な傲慢で、できるかどうかもわからない約束をするほどバカじゃないし薄情にもなれない。

それがどれだけ「人を苦しめるか」を知り過ぎてる。

記憶が多すぎる。異端な記憶が。

 


責任を持てる範囲は、自分で弁えてる。

現状では誰も守れないし、何も与えられるものなんかほとんどありゃしない。

あるなら教えてくれれば全て差し出したいんだけど。

言葉でも、心でも、体でも、金でも、時間でも。

 


今は、自分の存在や元気を望んでくれる人のために、そう在ろうとしてるだけ。

この姿勢を忘れて自分本位に生きれば、たちまち肉体的苦痛に悶えて、また日常生活すら自力でできなくなってしまう。

 


日々のたくさんの縛りに耐えるのは、結局、自分のためじゃなく人のためだから、これ自体は誇っているし尊いと分かってる。

 


じゃあ、どうしてこんな文章を書いてるんだろう。

自己分析も他者分析も済んでるし、結論も自己完結しているにも関わらず、誰のために、何のために、こんな文章を書いたり、音楽を公開したり、人と関わろうとするんだろう。

 


誰かに理解を求めてるわけでもないし、何かを主張したいわけでもない。

 


強いて言うなら、この期に及んで「意味のないことなんてない。全てに意味がある。何が誰のためになるかは分からないし、心や思考を残すことそのものが情報(財産)なんだ」って衝動だけなんだろう。

 


はたまた備忘録か、自戒か。

 


最近は、これまでどうして何度も死にかけたのかを、よく忘れる。目も悪くなり、食べ物や触れる物や吸う空気、行ける場所、できること、全てに縛りがある現状になったのはどうしてかを。

 


自己犠牲を極めて、体の無理を押して人のために生き過ぎたから。

忘れるのは、それだけ苦痛から解放された証明でもあるんだろうけど。

 


だから、今の自分がすべきなのは、自分を愛することや大切にすること。それは重々承知してる。

 


───それでも誰かを喜ばせようとか、誰かが苦しんでたらそれを緩和しようとか、なるべく傷付けないようにとか、いつも脳をフル回転して考えてしまってる。

 


そんな自分の不器用さに、ほとほと困り、呆れ果ててるのかもしれない。

 

来年は……と言わず今後、「欲望を持つ責任と覚悟を負える体」を、また取り戻せることを願いつつ、臨床研究を待ちつつ、それなりに努力しつつ、生き長らえようと思う。