記憶の価値
自分は覚えていて、相手は覚えていない、ということが多い。
もちろん逆の場合もあるけど、前者の割合が多い。
昔は「記憶の共有量=人生の財産」と考えていたけど、記憶に限らず個体差のあるもんに依存・固執するべきじゃない。
感情がブレブレになるし、苦しかった。
証明なんてなくても100%意識はここにあるし、その時あった。そう知覚してるし、してた。誰が覚えてなくとも、存在した。
未来永劫変わらない。それが全て。真実。
「存在は本当に存在するか」という証明は、前提として、自分が知覚してるかどうかでいい。
自分が認識しているからこの世界は存在してる。
意識があるから、この世界が有るか無いかをジャッジできる。
このブログを読んでる人はご存知やと思うけど、僕は、別の時間軸の存在が証明されない限り、この世は必然だけだと考える。どんな悲劇も喜劇も。
となると、「運」の個体差を説明できるのは因果応報だけ。その基準や仕組み、ルールは当然わからないけれど。
善行が徳を積むとは言うけど、「その壮大な摂理の中での善行」が何かも、正直わからない。
少し脱線して、性教育の話になるけど、射精1回分の精液の中に精子は約1〜4億匹いる。大抵、その1回分で見事受精するのは極めて稀。
「妊活」という言葉があるくらい、新たな命を授かるのは難しい。
それを考えると、数億〜数十億匹が、生死を懸けた(下ネタギャグではない)過酷なレースをし、見事勝ち抜いた1匹が受精し、着床し、遺伝子情報を基に細胞分裂し、1人になっていくというのは、もうとんでもない奇跡。
そして、形になった1つの命に対して、数億〜数十億の「存在できなかった存在達」が有る。
「存在してる」という真実だけで、もう必然の選ばれし者であり、あらゆる価値を超越した究極の価値を得てるも同然なんだ。
……いつも言ってるように、その価値を蔑ろにしてしまってるから、社会に悲観的な風潮が漂って狂ってくんだけど、ここでは割愛する。
過去も未来も、ここにはない。
ここにあるのは「今」だけ。
「今」の価値と「存在」の価値をどれだけ感じるかが、一番大きな幸せへの唯一の切符。
これを忘れずに居たい。
昨日までの記憶が毎日無くなる障害の人だって、世の中には居る。
毎朝、まずベッドルーム中に並べられた写真立てやアルバムを眺め、パートナーから自己紹介と、馴れ初めと、昨日までの互いの人生を聞かせてもらうことから1日が始まるとか。
その人は、不幸なのか?
その人は、人生を楽しめないか?
そうじゃない。
きっと、人生の価値は、もっともっと単純で、瞬間・刹那の積み重ねで、それゆえにみんな忘れたり複雑にしてしまったりする。
だけど「今存在してること」を一番大切にして生きれば、自ずと過去も未来も輝かしいものになると気付けた時、何も代わり映えのない日々のままでも、心が音を立てて激変する。
逃げるべき時は逃げ、休む時は休み、心を大切に、ね。