梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

急がば回れ

 

2015年の8月24日、死の瀬戸際まで行って突然覚醒した時に理解した、一元論と、命の仕組みや絶対価値。

 

あの時はそれに感動して、一気に地獄から天国になって歓喜して、数日間は嗚咽が止まらなかったわけだけど、そこで新たに、これをどうやって人に伝えようかという悩みができた。

それから、自分が理解したままにいろんな人に伝えても当然ほぼ理解されず、3年ほど試行錯誤してきた。

 

それで、やっとわかった。‬

 

「理解力も十人十色」だから、例えば小学一年生に高校三年生レベルの話を延々と真剣に話しても、大概は一生伝わらんし理解させられない。

それどころか、ちんぷんかんぷんな回答が来たり、不機嫌になったり、全然違う話を始めたり、退屈すぎて居眠りしたり、教室を立ち歩いたり、おともだちとおしゃべりを始めたり、無視したりする。

 

そう考えると、大人の世界でも同じやな、と。

 

想像だにしない次元の価値観を話されても、それが真実であっても、人は自分の知識や経験や記憶のパズルのみを組み合わせて物事を考える以上、どうやったってゴールに到達し得ない。ピースが足りない。理解できない。

 

そもそも、相手が不幸だろうが幸福だろうが、理解しようが理解しまいが、僕の幸・不幸には厳密に言えばなんの関係もないから、苦しいままがいいなら苦しんでいればいいけど、生理的に考えて苦しみたい人なんて居ないから、理解できれば昇天できるのに、ってずーっとどうしたらいいのか悔しく感じながら悩んでた。

 

 

理解力や固定観念や先入観ってのは、生まれてから今までの洗脳や刷り込みによる影響がほとんどやとは思うんだけれど。

 

だから、遠回りのようだけど、本当に0より1の精神で接することが何より近道で、一生かかったとしても、いや一生かけたところで相手が本質に気付けなかったとしても、最初から100を示して1すら与えられずに終わるよりかは、1だけ与え続ける方が、確実にある種の結果は出る。前進してる。プラスになる。

遥か先に確かに100が見え始めるから、示すよりも1を与え続けよう、と。

 

‪1〜99で与え、応えることで、0と100を示す。‬
‪そうやって生きる。‬

人のそれらも受け取れるようになりたい。
まずは縁する身近な‪人達の幸せを増やすために。‬

人のザルに水を注ぎ続ける生き方のしんどさは、充分にわかってる。

だけど、また始める。いや、もう始めた。できることから少しずつ。
‪かつて無理が祟った時と違うのは、もはやギブとかテイクって話じゃないってこと。‬
‪これは、ライフワーク。‬

心底、自分がそうしたい。

自分の自己顕示や自己肯定や自尊心なんかどうでもいい。僕が何者で誰かなんてこともどうでもいい。

アイデンティティさえ、その目的のためのツールやから。

ツールが必要なら得るまで。

 

人は須く幸せをたくさん感じたい生き物。

その幸せを微力ながら自他ともに増やす。ちりつも精神で。

それだけのこと。

それこそが、追い求めてた一元論の先だ。

形而上学や哲学の真髄は一元論止まりだけど、実際に凡夫としての現実に即した生き方を模索してた。

刹那と永遠、個体と全体、人間を一番に考えた際の、最善の生き方を。

ようやく、晴れた。

 

接する人の、心のザルの目が塞がっていくかどうかは、逐一、気にしてても一向に解決はしない。動き出せない。何も変えられない。

人の幸せを増やす。笑顔を増やす。

再びそうやって生きるために、死にかけからなんとかここまで這い上がってきて、体を維持するために今も極限の縛りを続けてるんやから。

 

 あぁー、スッキリした。