梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

否定を否定するという矛盾

 

‪僕は「否定は100%破滅への扉だからダメだ」が持論なんだけど、この持論自体が「否定を否定してる」という二律背反(自己矛盾)にももちろん気付いていて、ずっと悩んでた。‬

 

‪だけど、よくよく考えれば、予め何かしらの否定が既に存在しているという前提の話だから「発端の否定を否定する」なら矛盾が起こらない事に気付いて、悩みが解消された。‬

 

願わくば、否定を肯定できるようになりたいけど、どれだけ理屈や感情をこねくり回しても、否定の行く先は滅亡や破滅しかなくて、また新たな悩みができた。

 

基本的に、大大大前提として、生きてるってことそのものが、存在を肯定して(しまって)るわけだから。

 

ただ、存在を否定することと死を肯定することは、似て非なるもの。

 

存在する生物はいつか死ぬ。=死の存在を肯定してる。

存在を否定するということは、死を否定すること。100%逃れられないことから逃れようと思うこと。真理に逆らおうとすること。戦わないこと。負けること。自分の命や心を殺すこと。時間をゴミ箱に捨てること。

 

だから人は不老不死や美貌や若さに執着して、時間の流れに逆らおうともがき苦しむ。死の存在を拒む。目をそらす。

 

そしてもっと恐ろしいのは、死を否定すること即ち生を否定することと同義ってこと。

 

生きてることの価値や時間の価値に一切気付けなくなってしまう。

 

そして最終的に、「死は誰しもに訪れ、自分も例外ではない」という真実を受け入れざるを得なくなった瞬間、そこで初めて自分の「虚像の人生」を悔い、嘆く。

気付かずに生涯を終える人も多いかもしれない。

 

だから、対象がなんであれ、肯定を否定することは危険だ。

100%、誰かの不幸をもたらす。誰かの苦悩をもたらす。誰かの心がざわめく。

 

存在してる真実を否定する思考や言動や行動を、僕は否定する。

 

そして、存在してる真実を、全肯定したいと思う。