梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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アイデンティティを捨てたい

 

僕らが人と対峙して、その人がどういう人なのかを判断する材料として、いろいろある。

 

ステータスというやつだけど、国籍、生まれた土地、貧富、学歴、見た目の美醜、職業、役職、性別、趣味、五感の好き嫌い、特技、障害や病気や健康……etc。

 

僕自身は、このステータスどころか、自分は誰か、相手が誰かも、余計な情報だと感じる。

 

ずっと前に消したツイッターのアカウントでも散々言ってたことだけど、情報の真実性に、信憑性や説得力なんて言葉は無用なんだよね。

 

真実かどうかは自分で突き詰めればいいし、誰かの言動や行動を鵜呑みにしたり期待して、それと違ったからって、別にその誰かには責任も何もないし、100%間違いないことを言いますと宣言してるわけでもないはずなんだよ。

 

いや、仮に100%絶対的な真実を言いますと予め言われてても、結局はそれを鵜呑みにするか自分自身で確かめるかは自由なんだから。

 

全ては「情報」なんだ。

そもそも、相手がどんな人間であるかを判断する必要性もない。

 

例えば「理屈が通じない凶悪殺人犯かどうかは判断できないと危ない」などと言われたとて、それを判断できたところで、実際に襲われたら自分の腕っぷしが強くないと勝てないし、殺人犯=自分に殺意を持ってる、ってわけでもない。

 

これは、全てに当てはまること。

「偏差値の高い大学に行ったから頭がいいはずだ」

「大企業に勤めてるからお金持ちなはずだ。優秀なはずだ」

「親が頭脳明晰だから子どもも賢いはずだ」

「犯罪者の家族だから危なそうだ」

「障害者は健常者より劣ってるはずだ」

「同性愛者は同性みんな好きなはずだ」

「年配者だから達観してるはずだ。弁えてるはずだ」

「子どもだから大人より劣ってるはずだ」

 

言い出したらキリがないけど、こういう固定観念や「立証のしようがない相対的な常識」みたいなもんは、全て、真実にとっては邪魔でしかないし、視界を曇らせる因子なんだ。

 

僕らは、生きている以上、意識せずとも幸せや悦を求めているわけで、そのために情報を取捨選択する必要があるのに、どうして自分が苦しいとか嫌だとか怖いとか不安だと感じる情報に、わざわざ自分から近寄ったり捨てなかったりするのか。

 

社交辞令や「気を使ったウソ」も人生や命や時間の無駄遣いだし、何かを嫌ってる時間や傷付いてる時間ももったいない。

 

───というようなことは、人類共通の、自分を幸せにするための最速かつ最良の考え方だけど、きっと僕がネームバリューのある有識者だったとしたら、もっと簡単にこの考え方を受け入れられる人が居るんだろうと思う。

 

つまり、僕が誰であるか、あなたが誰であるかなんて本当にくだらないフィルターで、この世に存在する万物は情報なんだから、それの価値、良し悪しだけを見るようにすれば、全ての人が幸せになるのになぁ、と。

 

自分が自分であることは、奇跡的な必然で幸せなことではあるんだけど、それはもうわかったから、次はそれを人に「あなたも宇宙一の価値があって、その存在だけで愛されて然るべきなんだ」と伝えたいんだけど、そうなると自分が自分であることが他人のフィルターになってしまって、本当に歯がゆい。

 

梵我一如、一元論は、どんな人でも1秒で世界一、否、宇宙一幸せになれる真実なのに。