梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

感情と記憶が邪魔な時

 

 

情報を、情報として伝えたい時、なぜか感情で訴えなければ伝わらない時がある。

 

それは、試されていることに他ならない。

 

試されることが嫌いだ。

情報に、試すも何もない。情報は情報でしかない。

それが真実か虚偽かなんてのも関係ない。

主張に責任や説得力を要求されるなんてことも理不尽極まりない。

 

仮に、人を殴りながら「暴力はダメだ」と主張する人が居るとして、その発言の、情報としての正しさにはなんの変わりもないということ。

 

情報が真実かどうかは受け手が調べればいいし、それが煩わしいのであれば最初から聞かなければいい。

なぜそこで人は当人に証明を求めるのか。

情報に沿った「人の振る舞い」を求めるのか。

 

どれだけ口頭で説明するより、百聞は一見に如かずという言葉のように、実際に疑う余地のないほど完全に証明されなければ何も信じようともせず、確かめようともせずその努力さえも怠る。

 

多くの人がそう。

なんでそこまで愚かで居られるんだろう。

どうしてそんな他力本願で責任転嫁で生きて、何も気にせずに居られるんだろう。

 

僕は、どう頑張ってもそうはなれそうにない。

かくも生きにくい世界。

時に孤独に苛まれる。