梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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過去記事への追記

b124.hatenablog.com

 

どうやらこの↑記事へのアクセス元を見ると、やっぱり自殺志願者が多いようで。

しかも苦しんで死にたい系の。

うん、死ぬだけなら、本当に一瞬で驚くほど簡単にあっけなく死んでしまうのが人間だからね。

ただ、皮肉なことに、一番苦しみの多い死に方は、最後まで生き抜くことなんだよ。

苦しみの総量が多いのは、残念ながらそれしかない。

反対に、一番幸せの多い死に方も、最後まで生き抜くことなんだけどね。

 

死にたいと思う理由は、たぶん何かがつらいからでしょ。生きることに価値を見出だせないから死にたいと思うわけでしょ。つまりそのつらさから開放されたいがために死にたいと思ってて、苦しいわけだ。あと、もしかしたら自分の死によって誰かに何かを伝えたいって人もいるかもしれないね。復讐とか、感謝とか、主張とか。

なんにせよ、それだけ心は苦しいってことだ。

それなのに、苦しんで死にたいってのは矛盾してる。その言葉通りなら、今のその「死にたいくらいの苦しみ」を抱えたまま、何がなんでも生き抜くことが、最大の苦しみでしょ。

何かを訴える手段として死を考える人もそう。みんなが思ってるほど、自殺に訴求力ってないよ。歴史上、一体どれだけの人がその方法を選んで、何事もなかったかのように忘れ去られていったか。

最大の訴求力は、生涯、訴え続けること。学び続けること。

時間は不可逆で、常に蓄積されていく。

 

言葉遊びのようだけど、どんなに悲惨な理由があっても、自分で死ぬってのは傲慢。何度も死のうとした僕が言うのもおかしな話だけど、そうなんだ。

自分に価値がないと思うことも、この世に幸福なんてないと嘆くことも、全部が傲慢なんだよ。

 

価値というのは、存在そのもののこと。

つまり、存在してる時点で唯一無二の価値。

 

幸福というのは、自分の心の状態のこと。

この世になくて当然。この世にあるのは「きっかけ」だけ。

きっかけなら無限にある。それに気付くか気付かないかの話。

 

こんな長ったらしい理屈っぽい文章を読めるあなただ。バカなはずはない。

賢者が死ぬのはもったいない。話そう。盛大に無駄話で人生を浪費しよう。

悪意からは全力で逃げ切ろう。

もともとこの世に意味など用意されていないのだから。