梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

自分の笑顔も誰かの宝物

 

病床に伏してから、人の話に耳を傾けるようになって、「生きててくれるだけで嬉しい」って言ってくれる人が何人か居るってわかった。

その時、初めて「あぁ、頑張らなくてもいいんだ」って思えた。
関わりが深い人や、あまり親しくない人の中にも、そう言ってくれる人が居た。

それまでは、関わる全ての人のために常に全力じゃないと「許されない」くらいの気持ちだった。
社会のため人のため、やれ優しさだやれ愛情だと、自己犠牲の美学を刷り込まれてきたから。

確かに人の笑顔は美しいし未来へ繋がる宝だから、そのために生きるのは尊いけど、人に言われて初めて、自分の存在自体も誰かの幸せ=宝なんだと気付かされた。と同時に、その誰かの宝である自分を蔑ろにしてた傲慢さにも気付いて、衝撃だった。

もっと言うと、自分が長生きすることでも、より多くの幸せを誰かに与える時間を確保できる。
その場しのぎの「善意」だけに全力出しても、長続きしないから、結果的には与えられる善意の絶対量は変わらないんだよね。

「人」ってのは、自分も含めて大切。
人にとっての人、大切にしなくていい人なんて居ない。
大切にされなかった人が、人を大切にしない人になる。

自分が自分を大切にすること、存在を愛すること、健康で長生きできるように日々を整えることが、そのまま人の幸せに直結する。

何が人のためになるかなんて、100%相対的なことだから、気にしなくていい。

縛りのない、押し付けのない、人同士がただその存在を愛し合える世界になればいいのにな。たとえ何十世紀かかったとしても、人類が目指すべきはそこだから。