梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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再確認

 

 


‪こないだ、また体調の関係で死を予感してから、前の人格から今の人格に変わった時の感覚が強まった。‬

痛みや苦しみは嫌いだけど、死そのものに恐怖は抱いてないという感覚。

ただ、命は選ばれし資源=自分のリソースだから、それを無くすことに強烈なもったいなさと申し訳なさを感じる。

と同時に、それらの感情を掘り下げた時、やっぱり体にどんな事情があれ「自分が人に与えたいものやことのハードルを越えられない自分」には、悔しさや不甲斐なさを感じる。

究極的には自分は、金がなかろうが独りだろうが病気だろうが生きてようが死んでようが、どうでもいいんだけど。
……というか、自分が自分としてこの世に産まれて、生きて存在してる・存在したことそのものの価値や幸せ以上のことなんて存在しないから、気にもしないって言った方が正確かな。
これは全人類に共通することだからね。

そういう価値観だから、生きてる限り、自分の持てるもの全てを用いて、誰かの心を軽くするために命を使いたいってのが本音。

望まれたものだけを与えるのが愛でもなく、与えたいものだけを与えるばかりが愛でもないけど、最終的な捉え方は受動側に100%委ねられることを考えると、人のためってのは、結局は自分が主観で何をどれだけしたいのか、に尽きるから。

と言ってもそんな難しい話じゃなくて、

飴玉1個より、アソートパックあげたいよねっていう。

マックを奢るより、フルコース奢りたいよねっていう。

「ありがとう」は、優しい声で言いたいよねっていう。

「だいじょぶ?」より「がんばってるね」って言いたいっていう。

軽くあしらうより、顔を見て頷きたいねっていう。


引いては、人に何か「イイ経験」をしてもらいたいって欲が、昔から強いんだろうなと。

新しい知識を増やしたり、見たことのないものを見たり聞いたり、人間が人間として生きてる特権をたくさん使って、多種多様な感動や喜びの記憶を増やすのが、人間の本質だと思うから。

 

それを義務的に生きてきたのが前の人格なんだけども……。

 

 

そんなこんなを考えて──まだ、死ねないなって、再確認したのです。

苦しいのも痛いのも大嫌いだし、思うように日常生活送れないけどね。

 

それでも、生きてる限り、生きたいって、強く思うよ。