梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

低浮上のワケ

 

最近ツイッターでつぶやいてない。

‪今の自分の境遇では、何か出来事に対しての意見をつぶやくことがほとんどになっちゃう。‬

 

‪でもそれって、意見の賛否関係なく執着の始まりで。


‪野次馬(がや)って、どこまでも害しかないってわかってるのに、わざわざ労力使って意見する「がやの一人」になる矛盾した自分が居て。‬

 

‪考えをまとめるだけならブログでいいやと思って、最近は覗き見ツイッターの原点に立ち返り、ROM専。‬

 

どれだけグローバル化が進もうがネットが普及しようが、一人ひとりの力がしっかり及ぶ範囲って、めちゃくちゃ狭い。

 

二人称……いや一人称も真剣に向き合えてるか疑問なのに、さらに三人称にも口出しし始めたら、それはもう、ただの無責任でヒマな他人の戯言の域を出るはずもなくて。

 

自分たちが触れる情報って、たっっっっくさんあるけど、一体どれだけの情報や話題が、本当に自分に直接関係あるんだろうかって考えたら、たぶん2割もないんだよね。

 

なのに、残りの8割にも頭使ってああでこうで言ってるの、色々ともったいないなって。それこそ誰得で。

 

前に「アウトプットは大切」みたいなことと「取捨選択」について書いたけど、そもそも前段階でインプットするものの質や量を調節すれば、アウトプットする必要もなくて。

 

○○しなければならない、なんてことはないからどちらでもいいんだけど、やっぱりまだどこかで「誰かのための自分」が居るなぁって感じる。

 

大量のRT&ふぁぼも然り。

 

フタを開ければ、自分の芯になってる考えって「みんな好きにすりゃいいじゃん。幸せ感じなよ。逃げれる不幸や苦労からはすぐ逃げなよ」しかないから、自分が誰かに影響を与える責任なんて負いたくないんだよね。

 

それでも、なんかつまんなそうにしてたり、死にたがってたり、悩んでたりするのを見かけたら、リアルでもネットでも反射的に「やわらげよう」みたいな思考が働いてしまう。

それこそがブログのタイトルでもある「梵我一如の先」なんだけど。

 

ただ、自分のことすら背負えない現状で、人のこと気にするなんて客観的にはエゴだって重々理解してるし、メシアシンドローム然としてるなぁって思う。

 

そういったことも踏まえて、今はいい意味でもっと閉鎖的でもいいんじゃないかって、思って。

 

自分と大事な人達、好きなこと、美味しいもの、楽しいこと……そういった身近でクローズドな視野にズームすることも、人生の充実なんじゃないかと思い至ったわけです。

 

ただ、アカウントを消さないのは、

「人からどう見られたいかじゃなく、自分が相手をどう見たいか」

だから。

 

勘違いでもなく、繋がりが無くなったら寂しがる人が居るのは確実だから、こんな変な自分を慕ってくれる人を苦しませない努力は、申し訳程度でもするんです。(`-ω-´)

 

アスペなトラブルメイカーだから仲良くなるのは避けるけど、本当は好きだからね。人。