梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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生の中の死

 

 

生き物は、生きてるから死ぬ。

生きてなかったら死なない。

映画やゲームで出てくるようなゾンビは、死ぬじゃなくて「活動を停止する」とかって表現する。

 

「生きるの反対は?」と聞かれたら、誰しもが「死ぬ」と答える。僕もそう。

だけど実は「死ぬ」の反対は「産まれる」なんだよね。

 

じゃあ生きるって?ってなるけど、これは人生という一直線上の途中経過まるごとなんだ。

 

それの最後に「死」がある。

言い方を変えると、生の中に「産まれると死ぬ」がある

 

生きる上でその2つは、どうしても避けられない二大イベントなわけだ。

 

 

───とある若い絵描きさんが亡くなられた。それも突然の病で、ほんの数日の出来事。

 

僕らは、きっと自分や人の「死」を、普段から意識しなさ過ぎな気がする。

 

「おとといも楽しかったし昨日も頑張ったし今日も元気だ!だから明日も……」なんて、どうして確信持てる?

 

「まさか自分があの人が明日死ぬわけない……」なんて、ただただ都合のいい未来を勝手に信じて、「時間はたっぷりあるから」なんて考えて、幸せにはなんの関係もないことを毎日優先してるんじゃないかな。

 

そんなことをしながら、我慢して先延ばしにして生きてるから、生きてる意味や幸せや自分の価値を見失って、あろうことか「いま生きてる」という確固たる真実さえも、自暴自棄になって壊そうとするんだと思う。

 

そんな悲しいことある?

みんな苦しむために産まれたわけじゃないんだよ。

最初から苦しみたい人なんて居ないんだよ。

逃げることを阻止して、個体差を無視して団体や組織に属させ同調させて、幸せをどんどん奪うのが、僕らのしたいことじゃないはずなんだよ。

 

「命や生きてることそのもの」に比べたら、他はオマケみたいなもんなのに、オマケに囚われて、下手したら死んじゃうって、悲しすぎる。

 

死と向き合って、死を意識することこそ、自分が求める生き方、自分が望む価値、命の価値が見えてくる、そんな気がするんだ。

 

 

───今の科学では「無」の存在を証明できないらしい。存在を証明した時点で「無じゃなくなる」もんね。

「有」の相対として「無」という概念を人間が生み出しただけ。

 

だから、液体が蒸発したら気体になって、人が死んだら燃やして灰になって、そうやって「有るものはずっと有る」って真実を直視すると、じゃあ死ぬってなんだろう?命ってなんだろう?産まれるって??……いろいろおもしろくなってくる。

 

「僕がここに居る、あなたがそこに居る」って現実は、とても不思議で、絶対的で、それでいて奇跡的なことなんだと、思うんだよ。