梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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少し早めに総括

 

 

今年も終わりだから、少し早めに1年を総括。

ちゃんと書くのめんどうだから雑記だけど、珍しくPCブラウザから。


自分なりに、前向きを維持しながらの闘病の1年だった。

2010年くらいから人並みに生活できなくなって、多少は治癒は進んでたけど、ここ2年ほどは一進一退でほとんど大きな変化のない日々が続いてた。

「こんなもんかな」って中途半端な気持ちだった。

 

で、今年の5月くらいに一念発起して方向転換。

 

6月に激悪化。歩くのも難しいくらいに。

そこから、原因不明と言われ続けてる自分の症状の原因を、今まで以上に真剣に探る日々が始まった。

 

1ヶ月くらい水だけで生活してた時もあるし、今もまだ食べられない物のほうが圧倒的に多い。

食べたら色んなとこの皮膚なくなるし、呼吸困難起きるし。

 

夏~秋にかけて、何度か意識障害も起こしてて、2018年迎えられるかなぁとか考えたりしてた。

それくらい、中途半端に痛みや苦しさを感じながら生きるくらいなら、一か八かで色々と試して、前に進んで、それで死んだら本望だと思って本気で生きた年だった。

 

そんなこんなで、今はなんとか2018年を迎えられそうな状態で安堵してる。

 

絶食や食事制限で60kgから45kg減った体重も、52kgまで戻った。(身長173cm)

外に出て、ジョギング30分やジャンプロープ1000回とかもできるようになった。

ワイドグリップの懸垂もできるようになった。

 

肝心の症状も、少し回復の兆しが見えて、不明と言われてた原因にも辿り着きかけてる。

 

幸い、両親が協力的な家庭だから、その偉大なお力を借りながら生かしてもらい、たくさんの書物や新旧の医学論文、ネット情報など、毎日毎日自分の頭に知識を詰め込みまくり、自分の体で実験し、経過を観察し……をひたすら繰り返して、やっとここまで来たかって感じ。

 

2018年は、症状をもっと回復させる。今の自分ならそれができる。

そんな自信を持った状態の年の瀬を迎えられることが幸せ。

 

そして、来年も、周りの人達の幸せそうな顔が見たい。

自分がその一助になれたら良いけど、そこ度外視しても、いつも幸せでいてほしい。

苦しまないといけない人なんて、一人も居ないし、みんな幸せ感じて笑うために生きてるから。

 

 

余談

 

身体が一番エグかった夏に、何を思ったか、YouTubeに曲を上げ始めた。

たぶん、ストックしたままもし死んじゃったら、曲が報われないな~とか考えてたんだと思う。

おかげさまで、そんな危険な状況は脱したからその心配はなくなったんだけど、余裕があれば、たまに追加していこうと思う。

 

ツイッターで作り置きしてたアカウントの1つを専用アカにした。

https://twitter.com/TKHT_

 


「GET ID」 / Takahito zzZ

 

 

 


「WHITED ~眩しすぎた結果論~」 / Takahito zzZ

 

 

 


「HOSPITALIZATION」 / Takahito zzZ

 

 

再確認

 

 


‪こないだ、また体調の関係で死を予感してから、前の人格から今の人格に変わった時の感覚が強まった。‬

痛みや苦しみは嫌いだけど、死そのものに恐怖は抱いてないという感覚。

ただ、命は選ばれし資源=自分のリソースだから、それを無くすことに強烈なもったいなさと申し訳なさを感じる。

と同時に、それらの感情を掘り下げた時、やっぱり体にどんな事情があれ「自分が人に与えたいものやことのハードルを越えられない自分」には、悔しさや不甲斐なさを感じる。

究極的には自分は、金がなかろうが独りだろうが病気だろうが生きてようが死んでようが、どうでもいいんだけど。
……というか、自分が自分としてこの世に産まれて、生きて存在してる・存在したことそのものの価値や幸せ以上のことなんて存在しないから、気にもしないって言った方が正確かな。
これは全人類に共通することだからね。

そういう価値観だから、生きてる限り、自分の持てるもの全てを用いて、誰かの心を軽くするために命を使いたいってのが本音。

望まれたものだけを与えるのが愛でもなく、与えたいものだけを与えるばかりが愛でもないけど、最終的な捉え方は受動側に100%委ねられることを考えると、人のためってのは、結局は自分が主観で何をどれだけしたいのか、に尽きるから。

と言ってもそんな難しい話じゃなくて、

飴玉1個より、アソートパックあげたいよねっていう。

マックを奢るより、フルコース奢りたいよねっていう。

「ありがとう」は、優しい声で言いたいよねっていう。

「だいじょぶ?」より「がんばってるね」って言いたいっていう。

軽くあしらうより、顔を見て頷きたいねっていう。


引いては、人に何か「イイ経験」をしてもらいたいって欲が、昔から強いんだろうなと。

新しい知識を増やしたり、見たことのないものを見たり聞いたり、人間が人間として生きてる特権をたくさん使って、多種多様な感動や喜びの記憶を増やすのが、人間の本質だと思うから。

 

それを義務的に生きてきたのが前の人格なんだけども……。

 

 

そんなこんなを考えて──まだ、死ねないなって、再確認したのです。

苦しいのも痛いのも大嫌いだし、思うように日常生活送れないけどね。

 

それでも、生きてる限り、生きたいって、強く思うよ。

 

 

LGS

 

 

リーキーガットに否定的な記事が多い。
でも、完全糖質制限をしてほんの短期間で、たんぱく質全てに過剰反応してたちまち湿潤糜爛が起こって他の粘膜も荒れるようになって、浸出液で細菌感染を疑って抗生剤を使うと余計に悪化するのを考えると、過去の腸壁剥離が関係してるとしか考えられない。

 

 

血中に、アミノ酸まで分解されなかったたんぱく質が入れば当然毒素なわけで、抗原になるのは理解できる話。
ほんの数日で三大アレルゲンどころか、肉魚ですら瞬く間に皮疹や喘鳴を起こすようになった原因は、血中にそれらが大量に入った……としか言いようがない。

 

「無理なダイエット(糖質制限)をした女性が色素性湿疹になり、やめたら治り、しばしば再発するようになる」というケースが増えてるのはまさしくコレ。

「抗生剤で軽快してまた再発する」のは、免疫を司る腸内から血中に真菌類が漏れて、対立する菌が拮抗していて排除反応として炎症が起きているところを、その菌を一時的に抗生剤で不活性化させてるだけだからと考えると、全身にひどい炎症を起こしてる自分の場合は抗生剤で菌交代が起きて悪化したと考えれば、辻褄が合う。

 

IgE閾値が高くても反応が起きない人が居るのも、血中・粘膜にたんぱく質が侵入・曝露してるかどうかの違い。

食べ物に関しては、どこから侵入したか、と考えれば消化器系しかない。

 

ステロイドは直接の原因ではないけど、使い続けると表皮も粘膜も透過性亢進することを考えると、たんぱく質を体内に侵入させる一因にはなってるし、LGSがあるとしたら免疫抑制状態で腸内細菌叢が乱れた場合にカンジダ菌が全身に遊走・感染の危険もある。

ヘルペスやHPV、その他の感染症の危険性も増す。

 

ただ、ステロイド離脱とかいう症状や表現は正確ではなく、もともとの炎症をそれまでのランクのステロイド外用剤で抑えきれなくなっただけ。

二次的な悪化因子にはなるけど、悪化の根本原因ではない。

湿疹・炎症を抑えてしまうと、原因を見極めるための症状の変化がわからなくなるから、最初から使わないに越したことはないけど。

 

 

 

話を戻して、かつて過食して1ヶ月ほど下血したことと、胃下垂で痩せの大食いで糖質もたんぱく質も過剰摂取する傾向があったから、糖質制限前に、すでにある種の『LGS要素』は整ってたと考えられる。
糖新生のために消化不能な量のたんぱく質を摂り続けた結果、血中漏出が起こったと考えるのが妥当。

 

 

とりあえず、LGSという仮説の否定はいいとして、代案がほしいところ。
否定するだけなら子どもでもできる。


根本原因を追求する気もない巨大組織が、QOLを盾に対症療法で患者の人生を巧妙に搾取してリピーター増やしながら、誤診をしても医療ミスではないから罪にはならず、可能性を否定し放題。

直向きに真実を探求する側を全否定するって、闇深すぎ。

 

救命医療は必要だけど、あとのは本当にとてつもなく巨大な虚像だと感じる。

 

 

あなたの使命はどこにある

 

 

でんでんむしむしかたつむり〜

お〜まえ〜のし〜めい〜は〜……

 

 

 

はい、こんにちは。

 

 

 

‪まだネットがそんなに普及してないころ、それはもう僕も例に漏れず井の中の蛙で、仲間内で自分が一番アクションゲームがうまくて、その面白さを普及することに全精力を注いでた少年期だった。

 

日本中、世界中と簡単に繋がれて、相対的な自分の位置付けが簡単に明るみに出てしまうようになった昨今、あたかもその相対的な位置付けそのものが、自分の絶対的な価値であるかのような風潮は、とても危険だと感じる。

 

何もかもにランクが付けられる。

ゲームとか遊びだけじゃない。

年収も、学歴も、容姿も、健康も、人気も、器用さや運動能力、芸術までも。

そのトップランカーにならない限り人権が与えられないかのような、何も価値がないような、そんな厳しささえ感じるほどに、競うことが全ての人のライフワークになってしまっている時代。

 

一体、何人に勝って、誰の役に立って、何人のために生きれば合格なのか。ゴールは一体どこにあるのか。

 

そこに心からの幸せはあるのか。

 

 

 

───少年期、ただひたすら好きなことや面白いことに没頭して、そのフィールドで知らぬ間に先駆者になって、勝ち負けや優劣を超えて、最高のエンジョイを広めて普及させて共有してた。

 

あの感覚こそが、最高の人間味で、生きる喜びで、人類愛で、良き経済活動のサイクルなんじゃないかと、ずっと思ってる。

 

それは、誰もが、誰かに強制されるでもなく、誰かに望むでも与えるでも与えられるでもなく、自然な波動、自然な共鳴だったから。

 

誰も我慢してなかった。

負けても誰も責めなかった。

勝っても誰も偉ぶらなかった。

 

 

人の感情は必ず感染する。

良くも悪くも。

 

たった一人の「最高に楽しい」って感動は、必ずその周りに伝わる。

たった一人の「苦しい」が不幸の連鎖を起こす。

 

 

だから、何かに没頭して楽しめるのは、1つの才能だから、それができる人間を絶対に潰しちゃダメなんだ。

 

とことん1つのことを追求できる人、どこまでも可能性を模索できる人は、興味を持たせれば何をやらせても相当優秀な結果を出す。

 

 

井の中の蛙で良い。

人生で密接に関わる人間なんてそんな大勢居ない。

たぶん世界の74億人中、73億人には会うことさえないまま生涯を終える人がほとんどだと思う。

いくらネットやデジタルで世界と繋がってグローバルで可能性が無限だと言っても、人間の一生の時間は変わらなくて、できることが増えるほどに密度は薄くなるばかりなんだよ。

 

だから、自分の手が物理的に触れられるくらい近い環境や人達の中で、自分のありのままで生きていいんだよ。

 

自分は自分しか居ないという実感と、自分にしかできないことがあるという事実は、世界を相手にするより、よりミニマムでクローズドな環境で生きる方が遥かに見つけやすいから。

 

 

───ただ、大前提として、137億歳の宇宙の中で、あなたという存在はすでに唯一なんだってことだけは、いつも忘れずに居てほしいと、心から願う。

 

74億人は、誰もたった一人の人を必要とはしてないけど、74億人にとって74億人は必要だから。

 

「一人」が存在しないと、74億人も存在しない。

 

だから、大前提として「自分の使命は、自分として生きること」だというのは、全人類に忘れないでほしい。

 

ただ、そこに存在してるだけで、僕はあなたを抱き締めたい。老若男女問わず。

 

 

 

考えなくてもいいこと

 

 

考えなくてもいいこと、というか、幸せになるために考えるべきことって、1つしかなくて、他は全部どうでもいいこと。

 

 

他人と過去は変えられない、という言葉があるけど、もっと正確に言うと、自分も未来も変えられないんだよ。

 

自分が自分であることは、何をどうやったって変えられなくて、未来にタイムワープすることもできない。

この事実を理解して受け入れて第一歩目。

 

じゃあ考えるべきことは何か。

 

「いまこの瞬間の感情」

だけ。

 

「いまこの瞬間の感情」の「積み重ね」こそが「人生」だから。

 

……なんか以前のエントリーでも言った気がするけど、何回だって言う。

 

人生という物語がどこかに存在するんじゃなくて、自分がこの瞬間に感じてることが「即・人生」なん。

 

だから、悩んでるなら悩みの人生、怒ってるなら怒りの人生、苦しんでるなら苦しみの人生ってこと。

 

しかもその最悪な人生のうちのたった1秒たりとも、1億円払ったって一生取り返せない。

 

だから、どれだけ真剣に本気で「いまこの瞬間の感情」を、幸せに持ってく努力をするか、イヤなことからはちゃんと逃げて、自分が幸せを感じられる状態や環境にするか。

考えるべきことはそれだけ。

 

それが、自分の人生に責任を持つってこと。

 

自分を全力で幸せにしようとすることが、自分の人生に責任を持つということ。

 

苦しまないで。

 

 

低浮上のワケ

 

最近ツイッターでつぶやいてない。

‪今の自分の境遇では、何か出来事に対しての意見をつぶやくことがほとんどになっちゃう。‬

 

‪でもそれって、意見の賛否関係なく執着の始まりで。


‪野次馬(がや)って、どこまでも害しかないってわかってるのに、わざわざ労力使って意見する「がやの一人」になる矛盾した自分が居て。‬

 

‪考えをまとめるだけならブログでいいやと思って、最近は覗き見ツイッターの原点に立ち返り、ROM専。‬

 

どれだけグローバル化が進もうがネットが普及しようが、一人ひとりの力がしっかり及ぶ範囲って、めちゃくちゃ狭い。

 

二人称……いや一人称も真剣に向き合えてるか疑問なのに、さらに三人称にも口出しし始めたら、それはもう、ただの無責任でヒマな他人の戯言の域を出るはずもなくて。

 

自分たちが触れる情報って、たっっっっくさんあるけど、一体どれだけの情報や話題が、本当に自分に直接関係あるんだろうかって考えたら、たぶん2割もないんだよね。

 

なのに、残りの8割にも頭使ってああでこうで言ってるの、色々ともったいないなって。それこそ誰得で。

 

前に「アウトプットは大切」みたいなことと「取捨選択」について書いたけど、そもそも前段階でインプットするものの質や量を調節すれば、アウトプットする必要もなくて。

 

○○しなければならない、なんてことはないからどちらでもいいんだけど、やっぱりまだどこかで「誰かのための自分」が居るなぁって感じる。

 

大量のRT&ふぁぼも然り。

 

フタを開ければ、自分の芯になってる考えって「みんな好きにすりゃいいじゃん。幸せ感じなよ。逃げれる不幸や苦労からはすぐ逃げなよ」しかないから、自分が誰かに影響を与える責任なんて負いたくないんだよね。

 

それでも、なんかつまんなそうにしてたり、死にたがってたり、悩んでたりするのを見かけたら、リアルでもネットでも反射的に「やわらげよう」みたいな思考が働いてしまう。

それこそがブログのタイトルでもある「梵我一如の先」なんだけど。

 

ただ、自分のことすら背負えない現状で、人のこと気にするなんて客観的にはエゴだって重々理解してるし、メシアシンドローム然としてるなぁって思う。

 

そういったことも踏まえて、今はいい意味でもっと閉鎖的でもいいんじゃないかって、思って。

 

自分と大事な人達、好きなこと、美味しいもの、楽しいこと……そういった身近でクローズドな視野にズームすることも、人生の充実なんじゃないかと思い至ったわけです。

 

ただ、アカウントを消さないのは、

「人からどう見られたいかじゃなく、自分が相手をどう見たいか」

だから。

 

勘違いでもなく、繋がりが無くなったら寂しがる人が居るのは確実だから、こんな変な自分を慕ってくれる人を苦しませない努力は、申し訳程度でもするんです。(`-ω-´)

 

アスペなトラブルメイカーだから仲良くなるのは避けるけど、本当は好きだからね。人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの反抗期=大人のエゴ

 

 

僕の持論で「抑圧は後の爆発」というのがあるんだけど、もう毎日毎日、触れる情報がほとんど「規制と抑圧」ばかりで、イヤになってくるね。

 

焼け石に水、イタチごっこ、トカゲの尻尾切り、臭いものに蓋をする……こんなことばっっっかり!

 

そもそも石を焼くなよ、イタチを仕留めろよ、トカゲを捕らえろよ、臭いもの処分しろよ……と。

 

犯罪者を懲らしめるのもいいけど、それぞれの動機によってなぜその犯行に及ぶのかってのを理解して改善しないと、一生犯罪なんか減らんよ。

 

人は、心が満たされていれば他者や自分を攻撃することはないんだよ。

 

満たされていないのはなぜかと考えたら、それはもう100%、愛が欠乏してるからなんだよ。

 

貧困や病苦から生まれる欲望や絶望で、突発的に起こる殺人や自殺を始めとした犯罪だって、本人の周りに、たった数人の愛ある人間が居れば防げることなんだよ。

 

受験や就活に悩んで、生きる意味を見失う子達に対してもそう。

 

競争に勝たせるために周りの大人は必死になって勉強(という名の興味ない知識の詰め込み)を強要して、さらには子どもの息抜きのためのささやかな趣味すら奪ったりする。

 

「子どもの幸せや安全を考えて云々」って理由をつけてヒステリック起こす大人も居るけど、たとえ我が子であっても一人の人間の思考や感情や未来を決め付けるのは暴力。

 

家族や血縁という縛りが、余計に問題を深刻化させてる側面もあるよね。

 

他人を、相対的な自分の意に沿わそうとする人間って、どれだけ自分が偉いと思ってるんだろう。

 

この世に偉い人間なんて居ないし、苦労の押し売りに繋がるような「苦労の正当化」なんて滅びるべきだし、本当に思考の浅い人間ばかりで、イヤになってくる。

 

こういったことを踏まえて思うのは、子どもの反抗期というのは、言葉こそ「反抗」という穏やかでない表現だけど、名称自体にもう「子どもを思い通りにしたい大人のエゴ」を感じる。

詰まる所の本当の意味は「そのエゴに反抗する」っていう皮肉なんだよ。

 

「誰の操り人形にもならない」という、ごくごく当然の権利を主張してるだけなんだよ。反抗期の彼らこそが、人として一番正常な状態だとさえ思う。

 

それに、子どもは親の鏡だから、反抗期を経験するかしないかの違いは、結局は親が子を抑圧してるか否かに尽きる。

 

誰も死にたくて死ぬわけじゃないのと同じように、産まれる国や時代はおろか、産まれること自体も自分の意志で選択できないんだから、人間は誰しも自由に生きられないと辻褄が合わないし、「産まれることを強制した親」は、死ぬまで子どもを全力で喜んで愛して生かすのが筋なんだよ。

 

「産んでやって育ててやってるんだから感謝を〜」とかってケースもあるらしいけど、自分らが勝手に恋愛してセックスして勝手に子ども作って産んだ結果なのに、能動側が受動側によくもそんな勘違い甚だしい責任転嫁な発言できるなぁ、と呆れるよ。

 

そんな恩着せがましい人間を、誰が敬って感謝するんだろうね。

感謝や尊敬というのは、誰に頼まれずとも求められずとも、内発的で、湧き上がってきてどうしても止められない感情なんだよ。

 

正しく愛してれば、イヤでも感謝されるし愛が返ってくる。

 

それを、命に比べたらなんの価値もない競争にムリヤリ駆り立てて、心が幸せを感じることは全部抑圧して、しんどい思いして競争に勝つことだけが至高なんて思い込みを、ギュウギュウ押し付けて、不幸の巻き添えにするのは本当にやめてあげてほしい。

食品ロスについて考えれば、どれだけ愚かな社会的風潮かなんて、すぐわかるのに。

 

人生は「たった今感じてることの積み重ね」だから、イヤな気持ちや苦しい気持ちを感じる時間なんて1秒でも増えられたら困るしもったいないよ。

 

ただでさえ生老病死からは絶対に免れられないんだから、物理的に避けられる苦しさはどんどん避けていい。

 

そして、相手が家族だろうが偉い(と言われてる)人だろうが「思い通りにならないと一方的に攻撃してくる人達」には、どんどん「反抗・無視・逃避・反撃・防衛」しないと。

 

それでダメなら、早々に絶縁。たとえ家族でも。親でも子どもでも。

「苦しみ」を軽く見るのは、それが自分であっても、エゴだから。

 

これに限らず、どんな時でも、逃げる体力だけは、尽きないように気をつけたいね。