梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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真面目な人ほどしんどい

 

1999年、とあるロックバンドが金字塔を打ち立てた。

幕張メッセでの単独公演で史上初の20万人動員した伝説のロックバンド「GLAY」。

その記録は2017年の今も塗り替えられてない。

 

当時キッズだった自分も、その社会現象の渦に身を投じてた。

 

1999年の20万人ライブの前に行われた「pure soulのドームツアー」の一部始終を、NHKが追ったドキュメンタリー番組があり、幕張の数ヶ月前に放送された。

キッズだった僕はそれを食い入るように観ていた記憶がある。

 

ビデオテープに録画して、画質が劣化するまで繰り返し観ていた。

 

先日、YouTubeでたまたまその番組を見つけた。違法アップロードだからリンクは載せられないけど、とても懐かしかった。

GLAY 奇跡と栄光の向こうに…」という番組名。

 

当時観ていた時から、ボーカルのTERUさんがインタビュー受けてるシーンがとても印象的だった。

 

その発言の内容は、当時のあの方々の年齢を超えた今の自分が聞くと、より一層胸に響いたし、考えさせられた。その一つが、

 

「100人いたら100人とも考えや意見が違って、できるだけ一人ひとりと向き合いたいと思う」

 

という旨のもの。

 

この頃は、まだ携帯電話もインターネットもそこまで普及していなくて、大人でも持ってない人の方が多かったと思う。

 

今で言うところの2chのようなBBS(掲示板)というものが、ネット上の主な交流方法だった。

 

今のように、一瞬で手元のスマホでアプリを起動して、アカウントさえあったらサクサク……なんてワケにはいかず、PC本体は岩石のようにデカイわホームページの読み込みは遅いわコンテンツはチープだわ、それ以前にネットの利用料自体が従量制でどんどんお金かかるわ、ひいき目に見ても自由とは程遠いネットの世界だった。

 

それでも、「マイノリティでクローズドな世界」の中でみんなが「自分の好きなものだけを求めて集まる」ような時代だったと思う。

 

逆に言えば「好きじゃないものがあまり目に入らない、避けやすい時代」だったのかなぁとも思う。

 

それでもやっぱり、音楽なら違うバンドのファン同士の争いもあったし、過激なファンも居たから、ただ表面化しにくかっただけなのかもしれない。

 

そんな、もう15年以上も前にGLAYのTERUさんが放った先ほどの言葉は、今の時代にも共通してる本質的な言葉だと思う。

 

TERUさんが、現代で、心ない人の言葉に悩んでインスタグラムのアカウントを消したのは記憶に新しく、思い出して改めて胸が苦しくなった。

 

20年近くも変わらない想いで、姿勢で、一人ひとりの声に耳を傾けて、ライブでは絶対に後ろの人まで楽しませる事に重点を置いてきた方々。

 

めちゃくちゃ優しいしめちゃくちゃ強いし、本当に思慮深いと思うんです。

 

だからこそ、たった一人の発する心ない言葉にも真剣に向き合って、落ち込んでしまう。

何十万人というファンが居て、味方が居ても、それだけ言葉の槍の破壊力というのは凄まじいものなんだと、改めて思った。

 

───ドキュメンタリーで、TERUさんはこんな言葉も仰ってました。

 

「たとえ運命が最初から全部決まっているものだとしても、『自分で切り拓いてきたんだ』と言えるような生き方がしたい」

 

 

やりたいこと、やる意味、価値、そういうことがわからないだけでも不安な人生だから、なるべく人に苦しめられないように、人を苦しめないように、自分を苦しめないように、自分にも人にも「固定観念」を押し付けないように、自分の心が穏やかで居られるように、愛して愛されて生きられる人生が、いいよね。

 

 

 

 

生の中の死

 

 

生き物は、生きてるから死ぬ。

生きてなかったら死なない。

映画やゲームで出てくるようなゾンビは、死ぬじゃなくて「活動を停止する」とかって表現する。

 

「生きるの反対は?」と聞かれたら、誰しもが「死ぬ」と答える。僕もそう。

だけど実は「死ぬ」の反対は「産まれる」なんだよね。

 

じゃあ生きるって?ってなるけど、これは人生という一直線上の途中経過まるごとなんだ。

 

それの最後に「死」がある。

言い方を変えると、生の中に「産まれると死ぬ」がある

 

生きる上でその2つは、どうしても避けられない二大イベントなわけだ。

 

 

───とある若い絵描きさんが亡くなられた。それも突然の病で、ほんの数日の出来事。

 

僕らは、きっと自分や人の「死」を、普段から意識しなさ過ぎな気がする。

 

「おとといも楽しかったし昨日も頑張ったし今日も元気だ!だから明日も……」なんて、どうして確信持てる?

 

「まさか自分があの人が明日死ぬわけない……」なんて、ただただ都合のいい未来を勝手に信じて、「時間はたっぷりあるから」なんて考えて、幸せにはなんの関係もないことを毎日優先してるんじゃないかな。

 

そんなことをしながら、我慢して先延ばしにして生きてるから、生きてる意味や幸せや自分の価値を見失って、あろうことか「いま生きてる」という確固たる真実さえも、自暴自棄になって壊そうとするんだと思う。

 

そんな悲しいことある?

みんな苦しむために産まれたわけじゃないんだよ。

最初から苦しみたい人なんて居ないんだよ。

逃げることを阻止して、個体差を無視して団体や組織に属させ同調させて、幸せをどんどん奪うのが、僕らのしたいことじゃないはずなんだよ。

 

「命や生きてることそのもの」に比べたら、他はオマケみたいなもんなのに、オマケに囚われて、下手したら死んじゃうって、悲しすぎる。

 

死と向き合って、死を意識することこそ、自分が求める生き方、自分が望む価値、命の価値が見えてくる、そんな気がするんだ。

 

 

───今の科学では「無」の存在を証明できないらしい。存在を証明した時点で「無じゃなくなる」もんね。

「有」の相対として「無」という概念を人間が生み出しただけ。

 

だから、液体が蒸発したら気体になって、人が死んだら燃やして灰になって、そうやって「有るものはずっと有る」って真実を直視すると、じゃあ死ぬってなんだろう?命ってなんだろう?産まれるって??……いろいろおもしろくなってくる。

 

「僕がここに居る、あなたがそこに居る」って現実は、とても不思議で、絶対的で、それでいて奇跡的なことなんだと、思うんだよ。

 

 

 

 

 

 

ステロイド離脱症状と予後不良の根本原因

 

 

■簡単な既往歴

 

・生後半年からアトピーと喘息

 

・いつからか鼻炎も発症

 

・1歳から20年以上、ステロイド軟膏を使い続ける(強さはvery strongまで)

 

・10歳から10年以上、吸入ステロイド(フルタイドやアドエア)を使い続ける

 

・20歳から数年、点鼻ステロイドを使い続ける

 

 

■異変

 

・一番初めの異変は、20代半ば頃から、ステロイド外用剤の効きが悪くなっていったこと(それまで周りからは肌が綺麗と言われていた)

 

ステロイドのランクを上げても、炎症がおさまるどころか、頭から足先まで全身どんどん悪化

 

・当時のかかりつけ医の見解

「アレルギーがひどくなった」

「薬をちゃんと使えてない」

ステロイドが効かないなんてことはない」

 

 

ステロイド中止1度目

 

・塗っても塗っても悪化するので中止

 

・そこそこひどい悪化後、不快感がなくなる程度に回復(3ヶ月ほど)

 

・屈曲部は少し皮疹が残る

 

・そのまま1年経過

 

 

 

■2度目の異変

 

・残った皮疹をなんとかしたいと思う

 

日本皮膚科学会の権威ある医師に診ていただき、very strongのステロイドを処方してくださり、全身にしっかり塗るよう指導を頂く

→FTUを意識して数日塗り続けるとたちまち全身激悪化

 

・明らかに内側からぞわぞわと炎症が起こってるのがわかって、落屑ひどくなる(車を少し運転して降りると、シートに砂場ができるくらい)

 

・顔もパンパンに腫れてまぶたも開けにくくなる

 

・全身ピンク色の服を着てるような皮膚になり、灼熱感、浸出液、不快感の極み

 

・仕事ができなくなる

 

 

ステロイド中止2度目

 

・いわゆる本域の脱ステロイドを仕方なく開始

 

・ゾンビや四谷怪談のお岩さんが可愛く思えるくらいの、グロテスクな状態になる(日常生活も厳しくなり、親の介助に頼る)

 

・仕方なく「脱ステと言えばこの人」と言われてる先生に診ていただく

(確か紅皮症とヘルペスと言われた記憶)

 

※全身のヘルペスは、カポジという感染症で、感染症ステロイドは禁忌。悪化の原因の1つ。

 

・その後、徐々に回復していくが、たまに細菌感染と診断され、浸出液と糜爛(グチョグチョ)の箇所が増える時もあった(抗生物質で対処していた)

 

・あまりの炎症と掻痒で白内障になり、ほとんど目が見えなくなる(最後に自分で測った時で片目0.06、元は片目1.2)

 

・喘息のステロイドも中止(一時悪化はメプチンエアーだけで対処)

 

・悪化と軽快を繰り返しながら、徐々に皮膚は上皮化していき、炎症部位も減っていく

 

・途中、感染症に気付かず放置して、傷が治りきらず一生キズのようになった箇所が多数

 

 

 

■手術と恒常化

 

ステロイド中止から1年と3ヶ月後、見えなくなった目の手術をする(水晶体交換でピント調節は失うが、視力自体は回復)

 

ステロイドがしっかり効いてた頃の状態を10として、中止して爆発した時の症状を100だとすると、30くらいまでは回復(抗ヒスタミン剤抗生物質以外の薬は使わず)

 

・一進一退を繰り返しながら治癒に向かっていたが、明らかに回復が止まる

 

・後遺症的な皮膚と、アトピー特有の限局的な皮疹がやはり残る

 

・残った症状

屈曲部の痒疹、丘疹

全体的な皮膚の荒れ、落屑

痙攣レベルの掻痒感

粘膜の痛みや乾燥

 

 

 

■2年後

 

中止してから1年間に数度、局所的に乾燥状態から数日で湿潤糜爛(ジュルジュル)になった。

これは脱ステ界隈では「リバウンドの第x波」と呼ばれたり、傷からの細菌感染と診断されたりする。確かに抗生剤を飲むと、明らかに改善の様子を見せていた。

(この時はこの経験が、後に重要なヒントになるとは思いもしなかった)

 

 

2017年7月現在、中止から2年半が経ち、皮膚の状態が良くなりきらないまま恒常化したと思っていたが、事態は動き出す。

今までの自分の中の常識が覆り、見えなかった問題点が見えてきた。

 

 

 

■新たな展開

 

先日、免疫を高める為に、筋肉を付けながら糖質を制限する、という方法を試していた。

 

この糖質制限には3種類あるらしく、

・プチ制限

・スタンダード制限

・スーパー制限

と推奨派からは呼ばれてる。

 

多くはダイエットで用いられる方法だけど、自分は172cm52kg、体脂肪率1桁の瘦せ型。

 

ただただ免疫力を上げるために実施。

理由は、HPVやヘルペスその他の感染症を疑ったから。

 

自分が試したのはしばらく一切の糖質をやめて、タンパク質と野菜を多量に摂取しながら運動をするスーパー糖質制限

 

すると、制限開始から2週間経ったくらいで、それまでは乾燥してボコボコしてたところの皮膚(結節のような痒疹)が、みるみる赤くなって、湿潤糜爛になって、ガーゼと包帯じゃ1日ももたないくらいの浸出液が出始めて、気が狂いそうな強烈な痒みも生じた。

 

まず最初に思い浮かんだのが、細菌感染かカポジ(全身ヘルペス)。


一応、久々に病院に行ったらヘルペスが出てたようだ。抗ウイルス剤飲んでも遅いくらい症状は消退してる」との診断だった。

 

 

 

 

■浮かぶ疑問

 

ここで、小さな疑問が生じた。

 

ヘルペスは、アルギニンという成分よりリジンという成分を多く摂取し、免疫を高くしておけば発症しない。

 

スーパー糖質制限中は、通説では免疫力が高められてアレルギー疾患を改善させる。尚且つ、良質なタンパク質を大量に摂取する食事は、圧倒的にリジンが豊富。加えて、アルギニンが含まれてるものは種実類(アーモンドやナッツなど)や栄養ドリンクだけど、種実類にはヒスタミン(アレルギー症状を引き起こす成分)も含まれてるからいつも避けてるし、レッドブル等も一切飲んでない。

 

食物アレルギーは幼少期に克服してるし、ずっとヒスタミンが含まれる食べ物は極力避けて生きてるから関係ない。

 

だけど、糖質制限でアレルギーやその他の病気は改善されると言われてる中、自分の場合は明らかに糖質制限によって症状は激悪化した。

 

その後、「消退してる」と言われたはずの悪化はおさまらず、続いた。
そこで、浸出液が多い時は細菌感染を疑えという自分の教訓から、備蓄してた抗生物質を飲んでみた。

1日半で浸出液が止まった。

 

ただ、薬をやめると、また赤いびらんと浸出液。

 

糜爛に石鹸は逆効果だけど、水で毎日患部を洗って抗生物質を飲めば、前述した1年前の時は3日〜1週間くらいで完治して、ぶり返しはなかった。

 

何かがおかしいと思った。

 

 

 

■既存知識の整理

 

自分自身、ステロイドについて肯定も否定もしない。

何事にも個体差があるから。

 

問題なのは、ずっと効き続ける人と、自分のようにしばらく効いてたけど効かなくなる(悪化の一途を辿って、やめるとある程度回復する)という流れが何度やっても起こる人の違いはなんなのか、ということ。

 

アレルギー、アトピー、喘息、その他諸々について、書籍やネットで調べると、たくさんの意見や知識が出てくるけど、どれだけ調べてもどれもこれも根本原因や根治療法ではなく、単なる何かしらの結果で、万人に共通する100%の原因ではなかった。

 

これまでに見たり聞いたりした、思いつく限りの「原因らしい要素」を挙げてみる。

 

・体質や遺伝

・自己免疫疾患

・住環境(ハウスシック)

感染症(黄色ブドウ球菌、マラセチアetc)

・ストレス

・大気汚染

・運動不足

・不衛生

・過衛生による幼少時の免疫獲得失敗

・栄養不足や偏食

・化学物質への接触や摂取の増加

 

……医師や素人問わず一般的に言われてるのはこのくらい。

 

だけど、体質の原因を聞き返せばみんなだんまりか濁すし、遺伝は未だに根拠が解明されてない。発症しやすい遺伝子は見つかってるけど、代々遺伝する証明はされてないから、今のところオカルト。

 

その他の要素も往々にして個体差があるのは明白だから、根本原因ではない。

あくまで「要素」。

 

 

 

続いて「ステロイドが原因だ」と主張する人達の意見。

 

ステロイド軟膏によって皮膚のフィラグリン遺伝子が変異してバリアが破壊される

 

ステロイド軟膏の基材のワセリンや、ステロイドホルモン自体が傷から皮膚の基底層に届いて沈着し、酸化し、過酸化脂質になり、アレルギーを起こす

 

ステロイドにより免疫力が低下し、細菌やウイルス(ヘルペスやHPV)に感染する

 

 

……自分はこの最後のだけ有力だと思っていたけど、それでも、ステロイドを使い続けてもなんともない人もいる。

 

ただ、喘息の吸入ステロイドはメーカー情報では体内に20%ほど残留するし、「ステロイドに対する抵抗性を獲得して効かなくなり、stat5受容体を阻害するピモジドという薬を投与することで反応性が戻る」なんて研究結果もあるくらい。

 

つまり、アトピーのみでステロイドを使用してる患者よりは、自分が使用した総量の方が多くて、抵抗性を示す可能性は高いと思ってた。

 

使用量と、強さ、使用期間の長さが原因じゃないかと。

 

でも、これ以降、どれだけ調べても明確な答えに行き着く事はできなかった。

微生物学の論文や書籍を読んだりもした。

 

有名な病院の医師に「原因なんて今は問題じゃない」とあしらわれたこともあった。

 

HPVを疑って、自分の皮膚をセルフ冷凍凝固療法したこともあったし、日光のUVBを浴びてわざと日焼けしたこともあるし、抗真菌剤、オキサロール、ゲッケルマン、海外で最近行われてるブリーチバス、サリチル酸やスピール膏とかも試した。

選択肢がなくなって、サプリや民間療法もいくつも試した。

 

既存の知識や方法は、2年間でほとんど網羅した感はあって、調べることをしばらくやめていた。

 

 

 

 

■記憶

 

先日からの糖質制限による悪化で何かがおかしいと感じてから、記憶に思い当たる節があり、色々と思い出したり、お休みしてた情報収集を開始して、ひたすら調べまくることにした。

 

 

───時は遡り、ステロイド中止後、ちょうど半年くらいの時に、医師から「良質なタンパク質をたくさん摂って。水分は1000cc制限」という指示が出た。


とても暑い時期だったと思うけど、言われた通り守って、糖質制限のような生活をしたことがあった。


タンパク質+野菜のみの生活を続けた。
ジャンクフードやお菓子、穀物も小麦もなし。

 

その2週間後、打撲性白内障の関係で、他県の大きな病院の眼科に行く予定があったんだけど、その時の皮膚の症状はかなり悪化気味だった。

 

炎症もひどく、痒みや痛みもあって、湿疹から出る大量の浸出液が、明らかに黄色いし臭い。

 

「これは、脂質やタンパク質が漏れてるんだろうけど、全身のひどい傷を治癒させるためにはそれくらいのタンパク質が必要なんだろう」と、その時は解釈した。

 

そしてジュクジュクは細菌感染もあるだろうと、抗生物質を飲んだ。
浸出液は止まって、乾燥し、上皮化してきた。

 

その後、どうも胃や腸の調子が芳しくなくなって、フラつきや舌や手の痺れが出てきておかしいと思って、自主的にその食生活を中止した。

普通にバランスよく、少食で済ますことにした。


しばらくして、胃腸障害やフラつきなどの症状はなくなった。
と同時に皮膚の「悪化の波」も緩やかにおさまっていった。


つまり、前述した通り、この時は抗生物質によって細菌感染が治ったと思い込んでいて、食事との因果関係にはまるで気付けなかった。

 

 

 

 

■新しい視点

 

───そこで今回、まずは糖質制限の是非について調べたところ、どうも医師たちも一般人も、意見が二極化してる。


かいつまんで書くと、糖質制限が免疫力を上げる、という主張と、糖質制限をすると筋肉から糖が作られるから、基礎代謝が落ちて免疫力が下がる、という主張。

 

前者は多くの医師や機関が提唱してるけど、論文の数は少ない。
一方で後者は、海外の大学が研究で解明したこと。

 

その他にも共通してるのは、1日の必要摂取カロリーをタンパク質だけで摂ろうとすると数kgになる、と。


しかもそれはケトン体モード(飢餓状態)と言って、脂肪や筋肉を糖として使う状態でのことだから、骨や筋肉その他を維持するためのタンパク質はさらに摂らないといけなくなる。


……まず不可能でしょ、というのが当然の考え。

 

消化機能の良し悪しもあるだろうけど、そんな量のタンパク質をずっと摂ると、必然的に動脈硬化心筋梗塞などのリスクになる。

調べてみると案の定、そのような情報がたくさん。


さらには糖の不足で、セロトニンメラトニンが欠乏して、鬱状態(ネガティヴ)になったり不眠症になったり、認知症のリスクも高まる。

ここのところ、自分自身、おかしな夢を見たり、メンタルが打たれ弱くなったり、頭がぼーっとしてうまく考えられなかったから、辻褄が合う。


舌や右手の痺れも、糖質制限後に右半身麻痺になったという人の体験談もあったから頷けた。

 

ここまで来ると、情報の優位性としては、瘦せ型でスーパー糖質制限をする→筋肉減る→基礎代謝下がる→免疫力下がる、の説が濃いと感じた。

 

 

そこで、じゃあ皮膚にも直接的な影響があるのかどうか、という一番知りたかったことを調べ始めた。

 

たくさんのワードを組み合わせて、いろんな検索方法でググってみた。


アレルギーやその他の病が改善するケースはたくさんあっても、悪化するケースはなかなか見つからなかった。

けどシンプルに「糖質制限 かゆみ」で検索したら、ようやくヒットした。

 

しかも、糖質制限食を推奨してる方々でも「注意点」として挙げていたことがあった

 

 

 

■根本原因


「色 素 性 痒 疹」


しきそせいようしん。

 

糖尿病の患者や、若い女性が無理なダイエット(スーパー糖質制限のような)をした時に起こる、現代に増えてる皮膚病。

 

詳しい原因は不明とのことだけど、高ケトン血症が関連する説が濃厚。

 

病気の特徴として「米粒大のとても痒い丘疹が多発し、治った痕は茶色い網状の色素沈着が残り、しばしば再発する」ということ。

ステロイドを中止して、失敗する人の多くは色素沈着が残る
自身も皮膚のあちこちが焦げ茶色になってる。

 

それだけじゃなく、もっともっと決定的な特徴が2つ。

 

色素性痒疹には、
ステロイドが無効。
抗生物質が効く

 

 

参考にしたHPによると、色素性痒疹は、瘦せ型・汗かき・フケ症などの人に多いんではないかとのことだった。
自身も汗かきで、ステロイド中止前後から体の落屑が多い。一致してる。

 

プロセスとしては、瘦せ型→インスリンがうまく働いてない→腸がうまく働いてない→ケトン体を抑制・コントロールできない。

極端な糖質制限→ケトン体モード→筋力低下→免疫低下→感染症

その上で、肉・魚・卵・乳製品などのタンパク質(ケトン体)を、制限した糖を補うほどに大量に摂取すると、腸内環境がさらに乱れに乱れて、本来はそこで消化・吸収・糖新生・脂肪として蓄積・排泄されるはずの脂質とタンパク質が、体のあちこちに回ってしまう。(高ケトン血症)

 

長期間その状態が続くと、脂質が酸化し、過酸化脂質になって、炎症の原因になり、排泄器官である皮膚の下からそれが押し出されて、糜爛・丘疹・痒疹になる→さらに感染症リスク。


ちなみに自身は21歳の時に、仕事や恋愛や家庭のストレスと暴飲暴食で、腸の内壁が剥離して大量に下血し、1ヶ月は絶食して点滴に通いなさいと医者に言われたことがある。仕事の関係で1週間ほどで普通の食事に戻した。
これも腸内環境の悪化と機能低下として条件が一致してる。


そしてもう一点、なぜ抗生物質が効くのかというと、一旦、腸内細菌嚢を不活性化して、その間に自己免疫が細菌を殺して、暴れまくってあちこちに処理しきれない脂質をばらまいてる腸の働きを、弱めるからという説。


ステロイド中止後、リバウンドだ感染症だと思って耐えてた悪化の数々は、内臓不全による色素性痒疹で、あの傷口から出てた真っ黄色の液体は、タンパク質もとい、処理しきれない脂質で、皮肉にもステロイドの軟膏や吸入、ワセリンなどの保湿剤は、傷口(粘膜)に脂質そのものを与えるわけだから、体内から皮膚を通して脂質を排泄しようとしてるところを、体外からも脂質でフタをしてたということ。

 

「保湿をしても治りが遅くなる」という脱ステロイド推進派の意見も、これで説明がつく。

もう腸や皮膚が限界に達してたんだろうと思う。

そしてあの独特のニオイも、今思えば過激な糖質制限による「ケトン臭」と言われるものだったんだろう。

 

 

 

■まとめ

 

ステロイドの多量・長期使用、インスリン、栄養の大きな偏り、過剰摂取と摂取不足、高ケトン血症、腸内環境、免疫低下、色素性痒疹、感染症、ストレス……これらの見事なフルコンボの結果が、

ステロイドが効かないどころか塗るほど悪化していくけど抗生物質は効き、ステロイドを中止すると激悪化を経てある程度は回復する現象の正体。

 

数ヶ月〜数年かけてマシになるのも、頷ける。

そして条件さえ整えば、100%全員が同じ症状を起こすはず。

 

良かれと思ってやってたことのほとんどが、患者を悩ませ苦しめることの根本原因だったとは、目からうろこ。

 

裏を返せば、内臓がしっかり動いてて筋肉もあって、食べ過ぎればちゃんと「太れる人」は、きっとステロイドを使い続けられるんだと思う。

 

───これだけ知識と経験と理屈が合致したことはなかった。

 

この説からいくと、本当に色素性痒疹だけなら、流動食や絶食+点滴を続けて消化器系の炎症や不調を改善させて、その後は脂質制限して、食べる量と消費量を考えれば、寛解する。


どれだけ皮膚が改善されるか試して、しっかりビフォアアフターの写真も用意できたら、また書きたい。

 

 

 

 

自殺は防御反応・自然現象

 

 

さっきツイッターで自殺についてのツイーヨ見て、色々思ったから少し書き残す。

 

 

あなたは、こんな話、聞いたことあるかな。

 

 

───とある少女が、踏み切りの近くで遊んでいた。

警笛が鳴って、少女はちゃんと踏み切りの外に出て、離れたところで電車の通過を待っていた。

 

すると、目の前で、電車が脱線して横転して大惨事になった。

 

幸い、少女はちゃんと離れてたおかげで無傷だった。

 

少女は、死んだ。

 

 

───って話。

 

これ、実話なんだけど、とりあえず少女がなんで死んだのかが疑問じゃない?

 

少しうろ覚えなんだけど、原因は、あまりにもショッキングな出来事すぎて、少女の脳が膨大な情報と感情を処理しきれなくて、シャットアウトしちゃった(精神性ショック死)って結論付けられたんよ。検死で。

確か5歳に満たなかった女の子だったはず。

まだ色々と未熟すぎたゆえの、悲劇やってんなって思った。

 

 

察しの良い人ならわかることだけど、人の体は、限界の状態になると機能を停止するようにできてて、ガチめで死にたいと思い始めたら、自分の限界が近付いてるサインなんよ。

少女と同じ現象が、緩やかに起こってると言っても過言ではないんさ。

 

 

で、よく聞くのが、誰かの悩みとかむなしさに対して「そんなことくらいで」って言葉。

 

あなたも、人生の中で、言う側にも言われる側にもなったことあるかもしれない。

僕は正直、言う側にもたくさんなったし、今でもそう思っちゃいそうな時がある。

だから堂々と言う側を批判できない。

 

人によって感じ方や感じる対象が違うことは、今までのエントリーで力説しまくったからもう割愛するけど、ここで僕が言ってるのは「苦しみの理由」なんてことじゃなくってさ。

正直、そんなことが問題なんじゃなくて。

悩みや苦しみ、その出来事の大小や重い軽いは本当にどうでもいいことで、一番最初に見るべきとこではない。

 

もっとストライクに、もっと狭く、ジャストミートしたいところ、たった1つの最優先の確固たる真実は、

 

苦 し さ を 感 じ て る

 

ってことなん。

…………はっ?って思うかもしれんけど、そういうことなん。

 

そして、次に知るべきことは、

 

も う す ぐ 溢 れ る

 

ってこと。

…………はっ?って思うかもしれんけど、そういうことなん。

 

 

 

 

「雨の中で、バケツ一杯の水を、こぼさず空っぽにしてください」

 

って状態で、なんでバケツに水が入ってんの!って怒る人とか、挙げ句にわざと水を足してこぼす人が多すぎるんよ。

 

心というバケツに苦しみという水が満タン近く入ってる。

溢れたら、そこら中に広がって、あらゆるところに浸みて、被害がどんどん広がって、洪水になる。

 

自然現象なんだよ。

 

防ぐ方法なんて、考えれば色々ある。

 

傘を差して雨を入れないようにして、蒸発するまで待つとか、飲み干すとか、スポイトや注射器で少しずつ外に出すとか、ホースで吸って自動で排水する(サイフォン原理)とか、煮沸するとかさ。

 

んで、どうしてもできない、わからない、めんどくさい時は、ギブアップして忘れるってのも一つの選択肢で、バケツの水を無駄にこぼさない手段だし、立派な愛の形。

 

 満タンまで溜まったことをどうこう言っても仕方ないし、バケツ一杯の水はちょっとやそっとじゃ動かせないくらい重いから仕方ない。

 

 

一方で、バケツを密閉して圧力をかけたら、もう少し水は入る……ってのが「我慢と忍耐」の状態だよね。

 

その圧を強くすればバケツが割れる

緩めたら水が大噴出

 

つまり自殺か、殺人か。

 

殺意が、自身に向くか他者に向くかの違いだけ。

 

100%、この仕組み。

だって、自然現象だから。

 

 

実際の心は、目に見えないから、どんどん容積を増やすこともできるし、限界を無くすこともできる。

詰まるところ、それが本当の「成長」と「幸せ」なんだろうと、思う。

 

でも、バケツが満タンの状態でバケツをどうこうしようとすると、どうしても振動や力が加わって、やっぱり水が溢れてしまうんだよ。

 

物事には順序ってもんがあるのは、なんでも一緒。

 

良いとか悪いとか以前に、自殺は自然現象で、起こって当然の結果なんだ。

 

強いて言うなら「水を足した人とこぼした人」は、動機だね。

 

だけど、実はその人らのバケツの方が先に溢れてしまってたのかもしれない───ってとこまで、大勢が思いを馳せられたら……ヌクモリティが溢れるのになぁ。

 

 

 

 

人の気持ちに寄り添う方法を考える

 

 

最近わかったことがある、私だよ。()

わかったことというか、再認識なんだけども。

 

どんなことでも、相対と絶対(変わるものと変わらないもの)の2つの視点で見てから、絶対的なことを優先するのが、迷路の出口や目的地に辿り着く最短の方法なんだけど、いつもコレをどうやったらわかりやすく説明できるか考えてるのね。

 

んで、以前に書いたかもしれないけど、数年前までの僕は、人の役に立つってことを、相手の悩みやトラブルを綺麗さっぱり解決することだとずーっと思って生きてきたのね。

 

メンタルだろうが、対人や金銭トラブルだろうが、そういうのを一掃すればあなたは幸せなんでしょ?いいよ僕が全部やるよ解決するよみたいな考え方。

 

でも、それはザルで水をすくおうとしてるのと同じなのに、それだけが人の役に立つことだと信じ込んでたから、どんどんムキになっていった。

 

で、なぜか結果的に相手は、離れてく。

その時は、どうして離れてくのかわからなかったし、僕も別に離れてくのがイヤとか思わなくて、悩みなくなったらよかったね、幸せになってよ〜くらいの気持ちだった。

 

今になって思うとそれは、「相手の気持ち自体を完全に無視してた」からなわけなんだけど、その時は何もわからなくて。

何年も経ってから、薄々、気付きだして。

 

それが相対と絶対に何の関係が?

関係が、大ありなの。

 

人が「あぁーつらい苦しい死にたいもうダメ」って思ってる時、その思ってる理由は人それぞれ(相対的)なんだけど、そう思ってること自体は絶対的なんだって、最近ようやくまとまった。

 

つまり、相対的なことよりも絶対的なことを大切にするのが幸せの秘訣なのに、僕は人に対してずーっと真逆のことをして、遠回りどころか逆走してたなーって。

 

人の望みをたくさん叶えても、次は更により多くを望まれるようになって、キリがなかった。

 

しかも、望みや要求や解決って、人が与えちゃうと、本人は成長しないままで力が付かないから、一番最初の望みさえ自分で叶える力がないままになる。

 

無力と諦めと、他力本願になって、どんどん苦しくなっていく。

 

そうやって僕は、人をぶっ壊していったんだなって、振り返って反省してる。

 

寄り添うってのは、文字通り、無闇に手助けしたりせずに、その瞬間に相手が感じてる気持ちに目を向けることなんだって、やっとわかった。

 

その日その日に、どれだけ幸せ感じられるかが大切なのに、相手が苦しんでる気持ち自体はほっといて、その苦しみの理由とずっと向き合わせるわけだから、そりゃつらいよね。

 

でも、ほんとそれがわからなかった。

 

 

人が自分で立ち上がれるように、自分で解決できるように、自分で受け入れられるまで、隣で支えて励まし続けて見守ることが、絶対的に「人の役に立つ」なんだなって。

 

これは、僕がアスペ多動だからわからなくて、もしかしたらみんなは自然にできてることなのかもしれないけど、僕にとってはとても複雑で難解なこと。

 

地図に、迷路の出口はちゃんと印つけられてるけど、その迷路自体は果てしない、みたいな感じだね。

 

エスパーでもないのに、気持ちを汲み取るってのが、ほんとに難しい。

自分を押し殺すような、だんまりイエスマンが多い風潮だから余計に。

 

快も不快も、好きも嫌いも、思ったことを互いにバンバン言い合える社会ならいいのになーと思う。

前提に、存在は尊重しながらさ。

 

「うっせーよウザいんだよ俺はお前の意見や好みは気に入らねぇよでもお前のことは好きだよバカヤロー」

みたいなさ。

 

脱線したけど、ちゃんと、問題は何か?より、相手が何を感じてるかを見られるように、意識して努力しようと思った、私だよ。

 

 

 

 

 

我慢と頑張るの違い

 

 

 

我慢する人、耐える人って、自分の命や時間の価値を1nmも知らない。というか、忘れさせられた人なんだよ。
前の自分もそうだったし。

 

勝手にハードル作って、勝手に選択肢も逃げ道もなくして、見栄張って体裁を気にして、勝手に耐えて自分を追い込んで「どうせ世の中は薄情」「誰も助けてくれない・頼れない・ひどい奴ばかり」って不幸の責任を外に丸投げして、死を選ぶ。
バカだった。

 

これが人によっては、対象が自分じゃなく他人に向かうわけで。

 

つまり何かを我慢する・させる、許さないってのは、最終的に殺人その他事件に直結する。

抑圧するから爆発する。


仕事にせよ学校にせよ、例えやめちゃいけないって誰かに言われても、イヤがる人に何かを強制や強要するのはそりゃつまり犯罪だし、実は意外に自由はあるんよ。

金のためだけに働くなら、辞めて生活保護受ければいい。
そもそも、金が欲しい人なんて誰も居ないんだよ。
何か受けたいサービスや手に入れたい物があって、そのための手段としてお金を選んでるだけなんだよ。

「仕事が精神的にしんどくて〜」って精神科行ってから辞めりゃ、会社都合で失業保険も貰えるし、うつ認定されりゃ障害年金もらえばいい。
ちゃんと生存権が認められてる素晴らしい国なんだよ。

「権利を主張するなら義務を果たせ」ってワケわかんないこと言う人も居るけど、サッカーの話をしてる時に野球のルール脳で入ってくんなよって話なんだよ。
権利は主張するもんじゃなく、元々あるもんを明文化しただけのもんなんだよ。


んで、これは障害や病気で後ろめたさや悔しさを感じてる人にも言えるけど「ダメな人間・恥ずかしい人間」なんて居ないからね。


多くの人が「それはダメだ・おかしい・恥だ・クズだ」って思っても、たった1人でも「別にいんじゃない?」って思ってたら、それは絶対じゃなく相対なんだよ。

つまり、教育という集団催眠か洗脳か刷り込みの結果、そういう善悪感の比率になっただけ。

全人類に完全に共通することだけが絶対で、それに比べたら後のことは寝言みたいなもんなんだよ。

植物人間になっちゃった人にだって、素晴らしい価値はあるし、意味はあるし、愛されて然るべきなんだよ。
むしろ死んでも愛されてる人って居るじゃん。
つまり生きてるか死んでるかも、どう生きてるかも、価値の高い低いは無関係なんだよ。存在そのものの絶対的価値に、高いとか低いって概念がなくて、一元的なものなの。

 

「自分は今生きてる」という真実を、愛するために生きないと、苦しいだけの人生になっちゃうよ。

やりたいことを全力でやる、それだけが「頑張り」で、あとは「我慢・忍耐」だから。

そして、前提として、別に頑張らなくてもいい。
極論、死んでもいい。


なんでもいいから、自分をがんじがらめにしないで。全ての「イヤだ!苦しい!つらい!」から、全力で逃げて。


監禁されてない限り、みんな100%自由だから。

 

 

幸せと価値は2種類ある

 

 

やっと「絶対と相対」について書いた。

 

 

 

「今日は1日に9万回、明日は8万回、心臓を動かそう!」
なんて自分で決めてる人居ないと思うし、決めても制御できない。

「昨日はまばたきを21739回しました!」って毎日決めて数えてる人も居ない。

他の無数の体の仕組みや機能だって、自分でコントロールできる人は居ないよね。


自分の体がどういう仕組みでなぜ動いていて、そしてそれがどう作られていて、どういう動力で動いていて、そもそもなんで、どこに命が存在するのかって、だーれも知らないわからない。お医者さんでもわからない。解剖医でも。

 

だってそれらをコントロールできてしまったら「形あるものはいずれ壊れる」という真理を覆せることになる。



つまり、自分の意思や意識や自我なんてものは、
命というマスターの圧倒的な制御下に存在するサブでしかない。
preではなくpostでしかない。

心臓は、体からポーンと取り出して、血液と栄養さえ循環させれば、単体でも動く「自動能」ってのがある。

そこに人の意識や自我は関係ない。

人間が生きる意味や理由を考えてる間も、人間の心臓は規則的に動いている。

 

つまり「自分という意識」と「体という物体」は、「命」にとって、命を維持するためのツールと位置付けた方が正確かも。

生きてること自体、自分に一切責任がない。

 

食べないと死ぬ。欲は抑えられない。

生理的欲求は、追い詰められると確実に自分の意思を凌駕する。

 

そんな理解の範疇を超えた、不思議で奇跡的な仕組みを与えられて生かされてるって、つまり存在自体がとんでもない価値。

 

「存在価値がない。自分なんてダメな存在。生きてる価値ない。」

と言ったり思ったりする人は、それが完全なエゴだと気付くととてもラクになる。

自分の命や時間をバカにしすぎ。

これは精神論でも根性論でもなくて、100%の真実。つまり「絶対的価値」。

みんな、産まれてきたこと、生きてること、それ自体が無限の価値。

唯一の存在。

 

生きてる価値ない、意味わからないって考えの人が言ってるのは、相対的価値なんだよ。

 

人が与える価値。

与える人によって変わる価値。

代わりがある価値。

比べられる価値。

 

頭が良い、容姿が良い、スポーツ万能、仕事ができる、健康、優しい、金持ち、努力家、センスが良い、素敵な家族・親友が居る、理解者が居る……etc

 

全部相対。

 

上手・良い・優れてる・できるできない・持ってる持ってない・居る居ないって、全部、比較対象があること。

 

もっともっと手前、根本、大前提に、比較対象がゼロな「自分」って揺るぎない絶対的価値があるのに、そんなものお構いなしで、どんどん時間経過で変化してグラグラ揺らぐ、人によって違う相対的価値ばかりに囚われて、一喜一憂してるのが、世の常。

 

人間の幸せは、価値に伴う。

揺らいで変化する価値しかわからないと、自分の幸せも揺らいで変化して、振り回される。

 

絶対に変わらない価値に気付いて理解すると、極太の柱になって、根の深い大木になって、揺るがない幸せになる。

その土台を一度作れば、相対的価値も、人生に彩りを与えてくれる。

 

何か息苦しさを感じる社会が、悲観的風潮から脱却するには、そろそろ絶対価値(命や時間)に目を向ける人を増やす必要があると強く思う。

 

絶対的な幸せをずっと感じるには、自分の価値に気付くだけ。

 

 

 

 

■追記

 

自分が幸せになるのは簡単だけど、人を絶対的に幸せにするのは難しい。

喜ばせることとは全く違うことだから。

勘違いすると苦しいから気をつけて。

基本的に、人を幸せにするって、相対的価値観をまず払拭させるってことだから、往々にして嫌われることに他ならない。

 

あれがないこれがない、できない持ってないって不満を言う人に、不満だと思う自分の価値観を変えれば良いし、それは自由だよと言うとほとんどの人は怒って離れてく。

そういう人達は、恵まれて平和に生きてるから、そこまで幸せを望んでないんだと思う。

 

人の幸せのために生きる=嫌われること、これは忘れないほうがいい。