人の気持ちに寄り添う方法を考える
最近わかったことがある、私だよ。()
わかったことというか、再認識なんだけども。
どんなことでも、相対と絶対(変わるものと変わらないもの)の2つの視点で見てから、絶対的なことを優先するのが、迷路の出口や目的地に辿り着く最短の方法なんだけど、いつもコレをどうやったらわかりやすく説明できるか考えてるのね。
んで、以前に書いたかもしれないけど、数年前までの僕は、人の役に立つってことを、相手の悩みやトラブルを綺麗さっぱり解決することだとずーっと思って生きてきたのね。
メンタルだろうが、対人や金銭トラブルだろうが、そういうのを一掃すればあなたは幸せなんでしょ?いいよ僕が全部やるよ解決するよみたいな考え方。
でも、それはザルで水をすくおうとしてるのと同じなのに、それだけが人の役に立つことだと信じ込んでたから、どんどんムキになっていった。
で、なぜか結果的に相手は、離れてく。
その時は、どうして離れてくのかわからなかったし、僕も別に離れてくのがイヤとか思わなくて、悩みなくなったらよかったね、幸せになってよ〜くらいの気持ちだった。
今になって思うとそれは、「相手の気持ち自体を完全に無視してた」からなわけなんだけど、その時は何もわからなくて。
何年も経ってから、薄々、気付きだして。
それが相対と絶対に何の関係が?
関係が、大ありなの。
人が「あぁーつらい苦しい死にたいもうダメ」って思ってる時、その思ってる理由は人それぞれ(相対的)なんだけど、そう思ってること自体は絶対的なんだって、最近ようやくまとまった。
つまり、相対的なことよりも絶対的なことを大切にするのが幸せの秘訣なのに、僕は人に対してずーっと真逆のことをして、遠回りどころか逆走してたなーって。
人の望みをたくさん叶えても、次は更により多くを望まれるようになって、キリがなかった。
しかも、望みや要求や解決って、人が与えちゃうと、本人は成長しないままで力が付かないから、一番最初の望みさえ自分で叶える力がないままになる。
無力と諦めと、他力本願になって、どんどん苦しくなっていく。
そうやって僕は、人をぶっ壊していったんだなって、振り返って反省してる。
寄り添うってのは、文字通り、無闇に手助けしたりせずに、その瞬間に相手が感じてる気持ちに目を向けることなんだって、やっとわかった。
その日その日に、どれだけ幸せ感じられるかが大切なのに、相手が苦しんでる気持ち自体はほっといて、その苦しみの理由とずっと向き合わせるわけだから、そりゃつらいよね。
でも、ほんとそれがわからなかった。
人が自分で立ち上がれるように、自分で解決できるように、自分で受け入れられるまで、隣で支えて励まし続けて見守ることが、絶対的に「人の役に立つ」なんだなって。
これは、僕がアスペ多動だからわからなくて、もしかしたらみんなは自然にできてることなのかもしれないけど、僕にとってはとても複雑で難解なこと。
地図に、迷路の出口はちゃんと印つけられてるけど、その迷路自体は果てしない、みたいな感じだね。
エスパーでもないのに、気持ちを汲み取るってのが、ほんとに難しい。
自分を押し殺すような、だんまりイエスマンが多い風潮だから余計に。
快も不快も、好きも嫌いも、思ったことを互いにバンバン言い合える社会ならいいのになーと思う。
前提に、存在は尊重しながらさ。
「うっせーよウザいんだよ俺はお前の意見や好みは気に入らねぇよでもお前のことは好きだよバカヤロー」
みたいなさ。
脱線したけど、ちゃんと、問題は何か?より、相手が何を感じてるかを見られるように、意識して努力しようと思った、私だよ。
我慢と頑張るの違い
我慢する人、耐える人って、自分の命や時間の価値を1nmも知らない。というか、忘れさせられた人なんだよ。
前の自分もそうだったし。
勝手にハードル作って、勝手に選択肢も逃げ道もなくして、見栄張って体裁を気にして、勝手に耐えて自分を追い込んで「どうせ世の中は薄情」「誰も助けてくれない・頼れない・ひどい奴ばかり」って不幸の責任を外に丸投げして、死を選ぶ。
バカだった。
これが人によっては、対象が自分じゃなく他人に向かうわけで。
つまり何かを我慢する・させる、許さないってのは、最終的に殺人その他事件に直結する。
抑圧するから爆発する。
仕事にせよ学校にせよ、例えやめちゃいけないって誰かに言われても、イヤがる人に何かを強制や強要するのはそりゃつまり犯罪だし、実は意外に自由はあるんよ。
金のためだけに働くなら、辞めて生活保護受ければいい。
そもそも、金が欲しい人なんて誰も居ないんだよ。
何か受けたいサービスや手に入れたい物があって、そのための手段としてお金を選んでるだけなんだよ。
「仕事が精神的にしんどくて〜」って精神科行ってから辞めりゃ、会社都合で失業保険も貰えるし、うつ認定されりゃ障害年金もらえばいい。
ちゃんと生存権が認められてる素晴らしい国なんだよ。
「権利を主張するなら義務を果たせ」ってワケわかんないこと言う人も居るけど、サッカーの話をしてる時に野球のルール脳で入ってくんなよって話なんだよ。
権利は主張するもんじゃなく、元々あるもんを明文化しただけのもんなんだよ。
んで、これは障害や病気で後ろめたさや悔しさを感じてる人にも言えるけど「ダメな人間・恥ずかしい人間」なんて居ないからね。
多くの人が「それはダメだ・おかしい・恥だ・クズだ」って思っても、たった1人でも「別にいんじゃない?」って思ってたら、それは絶対じゃなく相対なんだよ。
つまり、教育という集団催眠か洗脳か刷り込みの結果、そういう善悪感の比率になっただけ。
全人類に完全に共通することだけが絶対で、それに比べたら後のことは寝言みたいなもんなんだよ。
植物人間になっちゃった人にだって、素晴らしい価値はあるし、意味はあるし、愛されて然るべきなんだよ。
むしろ死んでも愛されてる人って居るじゃん。
つまり生きてるか死んでるかも、どう生きてるかも、価値の高い低いは無関係なんだよ。存在そのものの絶対的価値に、高いとか低いって概念がなくて、一元的なものなの。
「自分は今生きてる」という真実を、愛するために生きないと、苦しいだけの人生になっちゃうよ。
やりたいことを全力でやる、それだけが「頑張り」で、あとは「我慢・忍耐」だから。
そして、前提として、別に頑張らなくてもいい。
極論、死んでもいい。
なんでもいいから、自分をがんじがらめにしないで。全ての「イヤだ!苦しい!つらい!」から、全力で逃げて。
監禁されてない限り、みんな100%自由だから。
幸せと価値は2種類ある
やっと「絶対と相対」について書いた。
「今日は1日に9万回、明日は8万回、心臓を動かそう!」
なんて自分で決めてる人居ないと思うし、決めても制御できない。
「昨日はまばたきを21739回しました!」って毎日決めて数えてる人も居ない。
他の無数の体の仕組みや機能だって、自分でコントロールできる人は居ないよね。
自分の体がどういう仕組みでなぜ動いていて、そしてそれがどう作られていて、どういう動力で動いていて、そもそもなんで、どこに命が存在するのかって、だーれも知らないわからない。お医者さんでもわからない。解剖医でも。
だってそれらをコントロールできてしまったら「形あるものはいずれ壊れる」という真理を覆せることになる。
つまり、自分の意思や意識や自我なんてものは、
命というマスターの圧倒的な制御下に存在するサブでしかない。
preではなくpostでしかない。
心臓は、体からポーンと取り出して、血液と栄養さえ循環させれば、単体でも動く「自動能」ってのがある。
そこに人の意識や自我は関係ない。
人間が生きる意味や理由を考えてる間も、人間の心臓は規則的に動いている。
つまり「自分という意識」と「体という物体」は、「命」にとって、命を維持するためのツールと位置付けた方が正確かも。
生きてること自体、自分に一切責任がない。
食べないと死ぬ。欲は抑えられない。
生理的欲求は、追い詰められると確実に自分の意思を凌駕する。
そんな理解の範疇を超えた、不思議で奇跡的な仕組みを与えられて生かされてるって、つまり存在自体がとんでもない価値。
「存在価値がない。自分なんてダメな存在。生きてる価値ない。」
と言ったり思ったりする人は、それが完全なエゴだと気付くととてもラクになる。
自分の命や時間をバカにしすぎ。
これは精神論でも根性論でもなくて、100%の真実。つまり「絶対的価値」。
みんな、産まれてきたこと、生きてること、それ自体が無限の価値。
唯一の存在。
生きてる価値ない、意味わからないって考えの人が言ってるのは、相対的価値なんだよ。
人が与える価値。
与える人によって変わる価値。
代わりがある価値。
比べられる価値。
頭が良い、容姿が良い、スポーツ万能、仕事ができる、健康、優しい、金持ち、努力家、センスが良い、素敵な家族・親友が居る、理解者が居る……etc
全部相対。
上手・良い・優れてる・できるできない・持ってる持ってない・居る居ないって、全部、比較対象があること。
もっともっと手前、根本、大前提に、比較対象がゼロな「自分」って揺るぎない絶対的価値があるのに、そんなものお構いなしで、どんどん時間経過で変化してグラグラ揺らぐ、人によって違う相対的価値ばかりに囚われて、一喜一憂してるのが、世の常。
人間の幸せは、価値に伴う。
揺らいで変化する価値しかわからないと、自分の幸せも揺らいで変化して、振り回される。
絶対に変わらない価値に気付いて理解すると、極太の柱になって、根の深い大木になって、揺るがない幸せになる。
その土台を一度作れば、相対的価値も、人生に彩りを与えてくれる。
何か息苦しさを感じる社会が、悲観的風潮から脱却するには、そろそろ絶対価値(命や時間)に目を向ける人を増やす必要があると強く思う。
絶対的な幸せをずっと感じるには、自分の価値に気付くだけ。
■追記
自分が幸せになるのは簡単だけど、人を絶対的に幸せにするのは難しい。
喜ばせることとは全く違うことだから。
勘違いすると苦しいから気をつけて。
基本的に、人を幸せにするって、相対的価値観をまず払拭させるってことだから、往々にして嫌われることに他ならない。
あれがないこれがない、できない持ってないって不満を言う人に、不満だと思う自分の価値観を変えれば良いし、それは自由だよと言うとほとんどの人は怒って離れてく。
そういう人達は、恵まれて平和に生きてるから、そこまで幸せを望んでないんだと思う。
人の幸せのために生きる=嫌われること、これは忘れないほうがいい。
ツイ減して思ったこと https://t.co/VQiSfv82aB
— RL029 (@RL029) 2017年5月28日
ツイ減して思ったこと
以前に、1年ほどツイッターから離れてた時は、身体的な事情があったからだけど、ツイッター始めて7年、意図的にツイッターから離れたことってなかった。
んで、ここ1週間ほどツイートとRTを自粛してみたんだけど、早々に思ったこと。
何かをして見て聞いて、感じて考えたことを言葉や創作で出す、これって人間の本質だなーって。
それが肯定か否定か、正義か悪か、クソリプか有益かは置いておいて、それぞれに感じたことを、それぞれが可能な手段で表現するってのは、もう、生理現象なんだと思う。
体は、飲み食いして消化して、必要な栄養を吸収して不要な老廃物はまとめて出す、を繰り返して代謝することで健康が維持される。
脳も、情報を食べて噛んで消化吸収してまとめて出す、を繰り返すことで、健やかに保たれるんだと思う。
食べないと死ぬし、食べ過ぎてもしんどい。
ちょうどいい量を、ちょうどいい間隔で摂取し続けて、食べ過ぎたら休んで、運動もして……みたいなね。
それは人によって違うから、自分の「適度」を見つけられたら素敵。
ただ、油ものや糖質や人工甘味料の諸々を摂り過ぎたり、運動不足が続くと体にどんどん不調を来すのは、人類共通。
脳も、食べる情報の種類や量や頻度によっては健康を損なうんだと思う。取捨選択は大切。
脳の健康を損なうってことは、つらい・苦しいってこと。
誰かが両手で頭をロックしてきて、まぶたを無理やり開いてきて、見たくもない情報を無理やり見せてくるなんてことはないし(あったら犯罪です)、密室で爆音でノイズを無理やり聴かせられるわけでもないし(あったら犯罪です)、情報を選ぶ自由と権利はみんなにある。
その自由を、自分で無くしてしまってる人が多い。ネットもリアルも。
表現する自由だけがクローズアップされがちだけど、表現を選ぶ自由もある。
ヘイターが不快なものにわざわざ張り付いて否定するのは、自分に与えられた自由をどこかで棄てて、脳にとってマイナスな情報を受け入れ続けてしまってるから。
その結果として、他人の表現の自由すら奪ってしまう。
否定・悪口・暴言・怒声・イヤミなどなど。
そんなもの脳に入れ続けたら不健康になるに決まってる。
自分の脳(心)の健康のために、自分が幸せだと思えるインプットとアウトプットを、みんなが自分らしく続けて、尊重し合えたらいいね。
自分の自由を解き放つのは、自分。
「人のため」の難しさ
人のため、社会貢献、そんな綺麗な言葉を、大人になるにつれ多く耳にするようになるし、かくいう僕も小さな頃から親や周りの大人に散々言われてきた。
中には、それを人生の目的にして生きてる人も居る。世間ではそういう人を「輝いている」なんて表現したりする。
私事ではあるけれど、自身、そういう教育を受けてきたから、なんの疑いもなく「人のため」という理由で生きていた十数年があった。
詳細は省くけど、僕が発達障害だからなのか、人のために一生懸命になるほど事態は悪化することが多かった。
人間関係で悩んでる人が居たら解決法を探して実際に動き、金で困ってる人が居たら工面し、病気で苦しんでる人が居たら名医を探して送迎で通院させ、愛に飢えた人が居たら何十時間でも話を聞き、そばに居た。
仕事も、家族や友人や恋人関係も、趣味も、自分が生きる上で関わる人全員のために粉骨砕身した。
そこに私利はなく、本当に利他の気持ちだった。
だけどフタを開けると、人々の心が苦しみから解放されることはなかった。
いつまでも自分で問題や悩みを解決しようともせず、前を向くこともなく、挙げ句には僕がうまく解決できなかったら、彼ら彼女らは僕を「無責任だ」と責めた。怒号が飛んできた。
偽善だとか、自己犠牲だとか、そんなことはどうでも良くて、ただただ目の前の人が悩み苦しんでるのを、なんとかしたいって気持ちだけだった。
いずれ、そういった無限に生じる他人の悩み苦しみや問題を、根本的に解決できない自分は価値のない人間だとも思うようになっていった。
それ以後の話は割愛するとして、このエントリーで言いたいのは、
何を・どれだけ・何人のために・いつまで・どこまでやれば、人のためなのかは、人によって答えも基準もバラバラってこと。
心も体も時間も金も、全て枯渇するまで人に使い、文字通り「命を懸けて」生きることが人のためなのか。
それで死んだら、他人からはヒーローヒロイン扱いかもしれないけど、人のために生きろと言いながら死んだら崇めるって、矛盾にもほどがある。
僕は思う。
曖昧な考えや言葉で一つの生き方を強要することは、人の命を奪うことだ。
「人の役に立て」と言う人間のほとんどは、人によって基準や答えが変わるような曖昧な考えが誰かの命を脅かすなど、そこまで深く考えてないし、明確な答えも持ち合わせていない、とても無責任な人間なんだ。
最後に、答えを書いておきたい。
人のため=人を幸せな気持ちにすること、という前提で言えば、これを読んでるあなたが、ただそこで生きてるだけで僕は嬉しい。
これを読んでいようがいまいが、お互いを知ってようがいまいが、なぜかあなたはあなたとして存在していて、宇宙中でたった一人の存在で、でも偶然は証明できないから必然で、とても不思議な奇跡的で尊大な価値がある。
生きてるだけで消費と需要を生み出す。
消費があるから生産があり、需要があるから供給がある。
経済的にも道徳的にも社会的にも、生きてるだけで人のためになる。
だから、したいことをしたい時にしたいだけして生きればいい。
人は一日のうちに、ころころと気分が変わるけど、それ自体が自然なことだから。
嫌な気持ちはどんどん伝染するよ。
だから、自分が、穏やかで、嬉しくて幸せで、そういう気持ちが増えるように生きることが、何より人のためになるから。
命や心を否定したり、苦しめたり、あなたが幸せを感じることを良く思わない薄情な「人・事・物」からは、できるだけ今すぐ離れるのがいいよ。
命と心と体を、大切に。
怪我の功名
知人「貴方がもし、毎日使ってる喘息の薬を全部やめられたら、私も前を向くわ。(どうせできないわよ)」
僕「わかった!」
──半年後
僕「禁煙してアホほど運動しまくって食生活見直して、薬を一切使わず半年経ったよ!!」
知人「私は貴方みたいに強くないから無理よ」
僕「(ぇえぇぇええぇぇ………)」
ということが、昔あった。
人は、自分で自分の価値観をまるっと変えようとしない限り、他人がどれだけ身を以て示しても何を与えても、きっかけにはなり得れど、根本的には変われないんだってことを学んだ経験。
ただ、主観的に、本当に見返りを求めずにやったことだけは、全て自分のプラスになっていると、後から気付く。
仕事も、恋愛も、趣味も。
お節介や想いを、相手が受け取ったかどうかや、望む結果になったかどうかは、あまり関係ないように思う。
利益を求めずに必死になった、その時のことだけは、記憶に残るというより、充実していた実感として残る。
推測だけど、死ぬ時に経験する走馬灯というのは、そういうシーンの積み重ねなのかもしれないな、と思う。
それを行動に移さずためらう人生だと、よく聞く「あの時にこうしていれば…」という後悔ばかりの最期になるのかな、と。
ありがた迷惑や、小さな親切大きなお世話もあるかもしれない。自分からも人からも。
だけど、自分の幸せを願ってくれる人の気持ちだけは、蔑ろにしないようにしたいと、今は思う。
自分を愛せてないと、受け取り方もヘタクソになっちゃうから。
結果と過程
「結果より過程の方が大切」
って言葉に対して、
「結果の方が大切でしょ」
って思う人は、
生きてること(過程)より死ぬこと(結果)の方が大切なの?
今日を大切に生きてると思えない人に、昨日を大切に生きたと思える明日はないよ。
いい結果じゃなかったら意味がないなら、最後までいい結果を出せない過程は全て無意味になってしまう。
「意味がない(なかった)と思うこと」ほど価値の低いことは他にない。
今、何を感じてるか…この積み重ねだけが人生なんだ。
家でも学校でも職場でも、家族と居ても友と居ても恋人と居ても上司と居ても、一人の時も。
今、何を感じたいか、そのために何をするか。
ただそれだけのことの積み重ねが、人生というたいそうな言葉の全てなんだ。
それ以外、本当にどうでもいいこと、取るに足らないことなんだよ。