梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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怪我の功名

 

 

‪知人「貴方がもし、毎日使ってる喘息の薬を全部やめられたら、私も前を向くわ。(どうせできないわよ)」‬


‪僕「わかった!」‬

 

‪──半年後‬

 

‪僕「禁煙してアホほど運動しまくって食生活見直して、薬を一切使わず半年経ったよ!!」‬

 

‪知人「私は貴方みたいに強くないから無理よ」‬

 

‪僕「(ぇえぇぇええぇぇ………)」‬

 

 

ということが、昔あった。

 

人は、自分で自分の価値観をまるっと変えようとしない限り、他人がどれだけ身を以て示しても何を与えても、きっかけにはなり得れど、根本的には変われないんだってことを学んだ経験。

 

ただ、主観的に、本当に見返りを求めずにやったことだけは、全て自分のプラスになっていると、後から気付く。

 

仕事も、恋愛も、趣味も。

 

お節介や想いを、相手が受け取ったかどうかや、望む結果になったかどうかは、あまり関係ないように思う。

 

利益を求めずに必死になった、その時のことだけは、記憶に残るというより、充実していた実感として残る。

 

推測だけど、死ぬ時に経験する走馬灯というのは、そういうシーンの積み重ねなのかもしれないな、と思う。

それを行動に移さずためらう人生だと、よく聞く「あの時にこうしていれば…」という後悔ばかりの最期になるのかな、と。

 

ありがた迷惑や、小さな親切大きなお世話もあるかもしれない。自分からも人からも。

だけど、自分の幸せを願ってくれる人の気持ちだけは、蔑ろにしないようにしたいと、今は思う。

 

自分を愛せてないと、受け取り方もヘタクソになっちゃうから。

 

 

 

 

結果と過程

 

「結果より過程の方が大切」

 

って言葉に対して、

 

「結果の方が大切でしょ」

 

って思う人は、

 

生きてること(過程)より死ぬこと(結果)の方が大切なの?

 

今日を大切に生きてると思えない人に、昨日を大切に生きたと思える明日はないよ。

 

いい結果じゃなかったら意味がないなら、最後までいい結果を出せない過程は全て無意味になってしまう。

 

「意味がない(なかった)と思うこと」ほど価値の低いことは他にない。

 

 

 

今、何を感じてるか…この積み重ねだけが人生なんだ。

 

家でも学校でも職場でも、家族と居ても友と居ても恋人と居ても上司と居ても、一人の時も。

 

今、何を感じたいか、そのために何をするか。

ただそれだけのことの積み重ねが、人生というたいそうな言葉の全てなんだ。

 

それ以外、本当にどうでもいいこと、取るに足らないことなんだよ。

 

 

幸せを決めない幸せ

 

 

 

先日、ツイッターのTLにて、プロゲーマーである梅原大吾さん(通称ウメハラ氏)が、慶應丸の内シティキャンパス内で講義をなさった時の動画が共有されているのをお見かけした。

公式チャンネルで動画が上がっているので、下記に貼り付けさせて頂く。

少々長いけれど内容はそちらをご覧頂くとして、僕はこの動画を拝見して、とても込み上げるものがあった。

 


ウメハラ「BeasTV」17/1/19 - 一日ひとつだけ強くなる 慶應丸の内シティキャンパス講演

 

講演の中で梅原さんは、
周囲の期待には自分のやり方で応えるよ
という旨を仰っている。

 

かいつまんで説明させて頂くと、ずっと周りの人間のモノサシ(価値や基準)で自分の人生や幸せを測られてきて、自分が得意な事や好きな事をいつしか否定してしまっていた。その周りのモノサシに合わせよう、周りが望む自分になろうと、期待に応えようと努めて生きた期間があった、と。


その生き方で、客観的に見れば「結果」と呼ばれるものを残し、境遇・環境もそのモノサシで測れば申し分のない時もあった、と。
では自分の心、感情はどうだったかと言えば、何も満たされていなかった。充実も、成長も、いわゆる「生きがい」を感じられず、とてもつまらない と思っていた、と。

 

このお話は、梅原さんという、社会的に見てある種の「成功」を収めた人が言うから正しいというわけではなく、人として、人間という生き物としての本質を説いて下さってるんだと思った。


どんなに裕福でも貧乏でも、どんなに健康でも病弱でも、人間関係に恵まれていても孤独でも、周りが羨望の眼差しを向けていても見下していても、 結局は本人の今この瞬間の感情・心はどうなんだと、今あなたは、僕は、私は、どんな気持ちなのか、何を感じているのか、それが人生の全てなんだ 。

 

もしこれを読むあなたが1年間、毎日悲しい気持ちで過ごしたとしたら、一生のうちの1年は「悲しかった人生」として確定する。もう変わらない。


「変えたいと思う過去」ではなく「変わらなくてもいいと思える過去」にするには、今、自分が苦痛を感じているとしたら、そこからなんとかして離れないといけない。それは、物理的なことだけでなく、本当に自分がやっている事で自分が満たされていて、今後も満たされ続ける事なのかを、常に自問自答する事なんだ。

 

それを考える上で必要になってくるのは、やっぱり「自分が何を幸福と感じるのか」を改めて追求していくことなんだけれど、ここで大きな勘違いをしてしまう人が多い気がする。

 

 

未来に幸せはない


「将来◯◯になったら(◯◯を得たら)幸せです」という考え方。これは、要は自分の幸せを決め付けているという事で、とても危険が伴っている。
しばしば「人の幸せを決め付けるな」とは聞くけど、この「人の」というのは、他人だけじゃなく、自分も含めた言葉なんだ。

 

目標を立ててそれに向かって爆進していくのは、とても尊い。でも、動画内で梅原さんが仰るように、その手段を取って、その目標に辿り着く事やプロセス全てに、自分が幸せを感じていないと、長続きしないんだ。飽きたり、意味を見失う。


この日、この時、この瞬間も、疑う事なく自分が「やりたいようにやっている」と思えなければ、ある意味、無責任なんだ。
語弊を恐れずに言うと「誰かに言われたから」「誰かのために」という言葉はどちらも、責任転嫁と他力本願でしかないんだ。

 

 

 

不可能は可能になりにくく、可能はすぐに不可能になる

 

長続きしないだけならまだ良い。もし仮に、何らかの事情で、その「達成すれば幸せになれる」と信じてやまない目標がどうしても達成できなくなった時、あなたは何を感じるだろう。事故や病気、誰かとの死別なんて、カレンダーには書いてない。スケジュール帳にも書いてない。iPhoneのリマインダーにも書いてないしsiriも教えてくれない。ある日突然、あっけないほどに簡単に、可能は不可能になる。


我慢して、耐え忍んで、色んなことを犠牲にしてきたプロセスを、胸を張って価値ある幸せな人生だったと言えるのかな。
目標を達成できなかった自分を、愛せるんだろうか。
そう考えると、やっぱり人の幸せのみならず、自分の幸せも自分で決め付けるべきではないと、強く思う。

 

自分をムリヤリ納得させたり、言い聞かせているのなら、それは周りがあなたに「勝手な幸せ」を押し付けているのと全く同じ事を、自分が自分にしてしまってるんだよ。

 

自分の生きたいように生きるというのは、誰がなんと言おうと、決して逃げではないよ。誰かのために何かのために労力や金や時間をたくさん注いでも、未来の自分への責任なんて誰も背負ってくれないし、ほとんどの場合は見返りも何もない。
ひどい時は、忍耐や苦労の先には死が待っているんだから。

 

自分の人生に四六時中、一生、責任を持てるのは自分だけなんだ。だから「生きたいように生きる」「やりたいようにやる」というのは、一見、悠々自適に見えて、実は一番自分の人生に責任を持ってる生き方で、自分が一番笑顔になれる事で、引いてはそれが何よりの人のためになるんだよ。
心と身体の健康があればこそ、人を喜ばせたりラクをさせたりできるんだよ。

 

例えその生き方が、社会的に見てどれだけレールから外れ、クズと罵られ、甘えだとか自己中だとか中傷されようと、「じゃあ誰か責任持ってくれるんですか、幸せにしてくれるんですか、どうやってこの心を満たしてくれるんですか」という話なんだ。

 

いいんだよ、好きに生きて。それを否定してくる人は、親や友や恋人であっても離れた方がいい。あなたが笑顔になれる事を否定してくる人間なんて、あなたの人生に不幸しか運んでこない。

 

 

 

愛や平和を嫌う人達

 

ここまで書いた事は、このブログの名前である「梵我一如の先」に通じていて、全人類…いや全生命共通であろう哲学の、一部分の話なんだけれど、なんしか情報が溢れまくっていて多様化が急速に進む現代では、その輪郭が時々ブレてしまう。


どれだけ強い意思を固めても、集団心理や、先祖から末裔まで続く刷り込み…村八分の足の引っ張り合いな社会風潮は強く、心を持ったタダの人間だからこそ、悪意や偽善に押しつぶされそうになる時もある。

日本だからというわけではなく、大昔から世界では、本質に近付けば近付くほど虐げられ抹殺されるという歴史が繰り返されてるからね。みんなが笑顔で幸せになるのを快く思わない人達、言い換えると「加害者=かつて負の連鎖に歪まされた被害者達」がたくさん居て、彼らも、人のモノサシで自分を測ってしまっているんだよ。

 

だから、僕自身もいろんな芸術に触れたり愛や人に注目したりして、頻繁にそのブレを戻す事が大切で、今回の梅原さんの動画はまさに、輪郭にフォーカスし、鮮明にしてくださった。

 

僕のような社会的ど底辺どクズが、あのお方にお会いする事も関わる事もないとは思うけれど、素晴らしい講義に感謝します。そして、何より誰よりご自身と向き合い続けているお姿に、心から敬礼・賛辞を送ります。

 

 

 

余談

 

僕は格闘ゲーム苦手。SNK2を少しやってたけど、地元でそこそこ上手な友人と100回戦って1回くらいしか勝てた事がないほど下手。
DQやFFのようなRPGMEGAMANDMCのようなアクションの方が得意で好き。(そんな情報いらんか)


読破ありがとう。

 

 

 

愛がほしい?

 

 

 

そこら中に愛は溢れてるけど、多くの人はそれを認めなかったり受け入れなくて、欲しいのはそれじゃないとばかりに不満や愚痴を溢す。

 

‪そういう人が他人に求めてるのは愛じゃなくて、自己肯定感。‬

自分で自分を認める、許す、愛すること。

 

‪自分で自分を肯定することを自分以外に求めても、すでに矛盾してるから、そりゃザルでスッカスカで、自分で肯定できるようになるまでずっと、すぐ虚しくなる。苦しくなる。不安になる。

 

 

 

まずは辞書で引く

 

愛の意味を辞書で引くと、

大切にすること

とある。

 

大切の意味を辞書で引くと、

価値ある物を丁寧に扱うこと

とある。

 

生き物の絶対的な唯一無二の価値は、紛れもなく疑いもなく命そのものであり、個体の自我そのものであり、それを丁寧に扱うというのは、壊さないようにするということ。

 

命を壊さないようにすることが愛。

存在させ続けることが愛。

つまり、命が生存してるだけで、れっきとした愛なんだよ。

 

 

 

愛の大小

 

存在させ続けるのが愛、その大前提の元、より良く存在させ続けようとする、たくさんの愛がある。

 

生きてること、生かそうとすること、喜ばせようとすること、苦しみを和らげようとすること、もっとラクをさせてあげよう、もっと便利にしていこう、その全ての「心」が愛であり善であり、行為・形として実行することが愛するということなんだよ。

つまり、結果は問わない

 

例えば、ビルから落ちようとする人が居て、慌てて止めようと駆け寄ったら、それに驚いて足を踏み外して落ちてしまった…こういう場合、止める方法が間違っていただけで、危ないから止めたいという心と実行したことにはなんの間違いもない。紛れもない愛。愛したんです。

法律でも、白です。

そもそも落ちようとしてたのが問題で、そこまで苦しんでた理由、苦しめた人や環境が、何より悪なんだ。

 

結果が伴わなくても、実を結ばなくても、愛は愛なんだよ。

 

 

  

愛ではないこと

 

そして一方で大切なことと言えば、

「苦しませること」の全てが悪だということ。

 

悪は、冒頭の自己肯定感が欠けることによってのみ生まれる。

嫉妬、渇望、羨望、憎悪。

暴力、暴言、詐欺、隠蔽。

 

そして、また誰かの自己肯定感が失われて、無限の負の連鎖になってる。

 

それは別に他人に対してだけじゃない。

自分に対してもだよ。

自分の命も苦しめちゃならない。

どんなに難病や大病を患ったり大ケガで激痛に見舞われても、命ってのは意思とはほぼ無関係に死に立ち向かう。是が非でも生きようとする。

ただ、心が苦しむと死に向かってしまう。

だから、命のために、心も苦しめちゃならない。

 

穏やかに、幸せを感じられるように、避けられる苦しみは避けて、生き延びる。生き続ける。

それが何より尊い。正しい。賢い。偉い。

 

 

 

有と無

 

あなたの目で見えるもの、聴こえる音、嗅ぐ匂い、体に触れるものも飲み食いで取り込むものも、感じることも、全ての存在自体が誰かの、何かの愛によって存在してる。愛がないと最初から存在すらしない。
着てる服も、食べる物も水も電気も、家電も、日用品やスマホやPCも。

 

そして、命も。

……それはセックスによって産まれるという意味ではなく、文字通り、存在=愛そのものなんですよ、ということ。

 

産まれてすぐ亡くなってしまう赤ん坊の命だって、最後の最後まで全力で生きようとする。例外はないどころか、純粋な分、大人以上に諦めない。

 

そして忘れちゃならないのは、存在してる・存在させられてる・存在していた時点で永遠に「無」になることがない。二度と。

オカルト的な話ではなく、水が蒸発しても、その分子も原子も消滅することがないように、形は変われど物質は永遠に存在し続ける。

物質として以外にも、記憶としても、事実としても、永遠に無くならない。

誰が覚えてなかろうが記録がなかろうが、証明できなかろうが、真実は永遠に変わらない。

 

与えられた命の時間の長さがどうであれ、それは不変なんだ。

 

いまこの瞬間、そこに「有る・居る」という事の不思議な必然。選ばれし存在。

(偶然を証明できない以上、存在は必然しかない)

 

これらの真実を実感することが、自己肯定なんだよ。

産まれただけで、生きるだけで百点満点、大前提で大成功、大幸福。

 

命は他人も自分も、はたまた人間であるかどうかも、関係ない。

 

「でも家畜を屠殺して食べてるよね」って人も居るだろうけど、命で命を繋ぐために、たくさんの種を増やして、絶やさず、愛して活かし生かす、等価交換なんだ。

食品ロス問題は人間のエゴだけどね。

 

生きるため以外の目的で自分達や他の命を苦しみに向かわせる人間は、本当に悪だよ。

それでも、悪も結局は「悪の被害者」だから。動機や理由がなければ悪には染まらないから。

 

 

自己溺愛

 

心理学用語で自己愛(narcissism)という言葉があるけど、これは皮肉にも自分で自分をちゃんと愛せない特徴なんだ。

だから人に執着・依存して空洞や空白を埋めようとするけど、冒頭で言った通り、スッカスカ。焼け石に水。

 

だから、やっぱり自己溺愛しないと。

存在に感謝、存在を称賛、存在に歓喜

 

精神的、肉体的に、しんどいこと苦しいこと、物理的にどうしても解決し得ない問題、本当につらいと思う。

でも、あなたの意思とは無関係に、体は生きようとしてる。愛されてる。自分の命に。運に。世界に。人に。

 

たった一人の自分を、自分で愛する、大切にすることは、恥ずかしくもおかしくもないしワガママでも非常識でもないし、なんならそんなの全宇宙共通の当たり前であるべきなんだよ。

いくらでも代わりの利く問題で、宇宙中探しても代わりの居ないあなたが苦しむなんて、割に合わないんだよ。

※例えクローンでも自我は別なはず。

 

自分をちゃんと愛せる人が、自分以外も愛せるんだよ。命や心を大切にできるんだよ。価値を知ってるってことだから。

 

やりたいことを、やりたいだけ、やりたい時にやって、何もしたくないなら、ただただ生きる。生きるんだ。

誰もやりたくないことは、誰もやらなければいい。

「誰かがやらないと…」って、生きてく上で必要に迫られたらみんな自分でやる。

 

 

 

個人目線でも、人類目線でも、1秒スパンでも1万年スパンでも、それがベストなんだよ。

命の価値に気付かないうちは、裕福さも便利さも進化も発展も、ぜーんぶ茶番なんだから。

 

 

 

 

 

※前回のエントリーで言ってた「絶対と相対」の話はまだ執筆途中。真剣に書いてる。

 

不幸大好き?

 

他人の不幸でメシが美味い?

 

なんて言葉を昔からネットで耳にする。
人は、自分より境遇が悪い人を見て、比べて「自分はまだマシだ」と幸せを再確認する節がある。今に始まったわけじゃない。
日本だろうが海外だろうが、大差ないと思う。

ただ、タイトルの不幸とは、他人の不幸ではなく自分の不幸を指している。

つまり「人間は自分自身を不幸にするのが大好き」ということ。
こんなこと言うと罵詈雑言の嵐に遭っても文句は言えないけど、それでもそう考えざるを得ない。

 

 

 

不幸の強要は犯罪だけど…

 

誰かを殴ったり、拘束したり、強要したり、脅したりすれば、当然捕まる。
犯罪は、言い換えると人を苦しめて自由や可能性を直接的・物理的に奪うこと。

つまり、もし人に苦しめられてるとなれば、犯罪被害に遭ってるということ。
でも周りを見回しても、そんなにたくさん逮捕されてる人も居なければ、書類送検されてる人も居ないし、略式起訴も民事訴訟もない。

にも関わらず、苦しんでる人が居る。
それもたくさん居る。
苦しみだけじゃない。悲しみ、悔しさ、怒り、投げやりなど、負の感情を抱えてる人が多い。

 

かくいう僕自身も、以前はこれらを抱えまくって、持病もありつつ自分を追い込みまくって、挙げ句に自己否定を極め死を選んだこともある。結果的にミスったことも、今ではネタ。

その時に色々と考えていたんだけれど、一体自分はどうして苦しんでいるのだろうという疑問の答えに辿り着いて、自分を救えた。

自分が幸せになることを望んでいなかった。
自分に価値があるなんて思えなかったから。

例えどんな苦境にあっても、難病や経済苦や人間関係の悩みに苛まれても、前向きな人はいつも前向きなのに、自分はそうじゃなかった理由は、本当に単純なことで、自分を幸せにしようとか愛そうとか思ってなかったから。

誰かに苦しめと頼まれたわけじゃない。
幸せになるなと羽交い締めにされたわけでもない。
死ねと言われたわけでもない。(言われても死ぬ必要ないけど)

なのに、ことごとく自分がつらい方向にばかり進んで、どれだけ認められても感謝されても心はザルみたいなもので、自分を如何に苦しめるか、自分をどれだけ否定するか、どれだけ許さないか、そればかり考えてた。
贖罪に生きる、と考えるに至る経験はあったけど、ここでは割愛。

人に言われた些細な事を気にしたり、自分の価値観と違う人に敵意を見せたり、はたまた誰かを羨んだり妬んだり、一喜一憂して、根無し草だった。

 

 

悲劇のなんちゃら

結局は自作自演、自傷行為、被害妄想だった。

誰に何を言われても、それで苦しまなければならないなんて決まりないし、強制じゃないはずだから自由もあるはずだし、肉体的な苦痛があったとて心まで苦しまなければならないわけじゃないのに、自分が何かを恐れてたり自分を愛さないがゆえに、勝手に苦しんでた。

「許せない自分」が1つ増えてく度に、自分のみならず人の可能性まで1つ潰すことになる。どんどん生きにくくなる。


また別の機会に書こうと思うけれど、絶対と相対を履き違えてるから、本質が見えなくなるんだ。
当然、そんなこと(そんな重要なこと)誰も教えてくれないし、たぶんわからないんだろうし、わかる必要もないのか考えようとしない人ばかりなのかもしれない。
でも、絶対と相対の2つの価値と幸せを知ることで、生きる理由や希望を取り戻せる人ってたくさん居ると思う。

 

 

追記:書きました。

幸せと価値は2種類ある - 梵我一如の先

 

 

 

 

 

 

 

抗いにくいけど不可能ではない


───不幸大好きになってしまう原因は、生まれてからの家庭環境が大きいし、そんな刷り込み価値観を、ある程度成長してから変化させるのは難しいのかもしれない。それが出来た自分は運が良かったのかもしれない。

だけど、生きてる以上、苦しんだままなんてしんどすぎるし、最終的に死によって生の苦しみから解放されるとしても、できることなら幸せが多い人生を生きられるに越したことはないから、こうして色々と書くことによって、自分を愛せてない、自分を許せてない、自分を幸せにしようとしてないって人が、何かに気付くきっかけになれたら、嬉しいなと思う。

 

苦しまなきゃいけない人なんて、たったの1人も存在しないからさ。

 

 

 

 

 

インフルエンザに学ぶ

 

冬になると‪インフルエンザの話題には事欠かない。家でも仕事でも学校でもSNSでもニュースでも、あちらこちらで。

 

その中で、毎年気になるのが「すぐ治る人と長引く人の違い」なんだ。

インフルエンザは、陽性が出て初めて「私インフルエンザです」と言えるんだろうけど、病院に行ってなくてもインフルエンザの人はきっと相当数居ると思う。

 

そもそも、普段の風邪と何が違うかって、大した違いは無いはず。

風邪という病気は存在しないし、風邪で死ぬ人も居るし、ワクチンの有効性も曖昧だし、インフルエンザというウイルスが特別厄介なワケではないと思う。

 

……こういう話をし始めると、利権だのなんだのとややこしいことになるから割愛して、話を本筋に戻すと、不調が長引く人とすぐに快方に向かう人の違いは、その病気が何であれ(※先天性のそれは除く)、やっぱり免疫力の違いなんだろうなと。

 

免疫は大きく2つに分かれてて、細胞性免疫と液性免疫というものがある。

 

細胞性免疫は、とりあえず体にとって害になる存在を殺す。もう根本的に死滅、不活性化。病原菌やウイルスなど。

液性免疫は、排除する。追い出そうとする。物理的に体外に排出しようとする。

 

この2つの免疫の均衡が崩れたり、それぞれの免疫機能に異常が起こることで、たくさんの不調が起こり、長引く。

 

察しの良い人はザッと説明読むだけで薄々勘づくけど、液性免疫が暴走したのがアレルギー。

風邪の諸症状と言われるものも全てこれ。

くしゃみ、鼻水、咳、痰、腫れ、かゆみ、発熱、○○の痛みなど、液性免疫が強く働くとこうした症状がひどくなる。

 

反対に、細胞性免疫が強く働くと、そもそもこうした症状はあまり出ない。

風邪を引かない人というのは、つまりウイルスが入ってきても細胞性免疫が速攻で殺しにかかるから症状が出ない人、ということ。

 

忌まわしき病気の諸症状は、ウイルスや病原菌が悪さしているのではなく、それらをうまくやっつけられなくなった自分の体の悲鳴とも言える。

 

ではなぜ免疫の均衡が崩れるのかというと、不摂生の一言に尽きる。

自分に必要なことと不必要なことを見失ってる、または不必要だとわかっててもやめられない何かがあるから。

 

運動や栄養や睡眠、嗜好品、日常のストレスなど。

 

一般論や栄養学や医学はある程度無視しないといけない。

なぜなら、同じ成人男性でも一日中動いてる人と一日中だらだらしてる人では、必要摂取カロリーも違えば健康を維持するために必要な運動量、肉体的限界も雲泥の差だから。

 

「青魚に含まれるオメガ3脂肪酸を摂れば細胞性免疫がUP」とか「植物油脂は過酸化脂質になって免疫力が下がる」なんてそんな画一的で簡単な話ではないんだ。

 

自分の生活スタイルと体にとって何がどれくらい必要かそうでないかを考えて実行できる人は、細胞性免疫が常に優位に働いて、無敵になれる。

 

インフルエンザも風邪もアレルギーも、引いては癌だって、どれだけ細胞性免疫を優位に出来るか高められるか、NK細胞*を増やせるか働かせるか、これを徹底的に追求することで、自ずと真実が見えてくる。

(※NK細胞=ナチュラルキラー細胞。前線で戦う細胞。喜びや嬉しさを感じることでたくさん増えるらしい)

 

そうして、ただ健康を重視して断捨離していくと、なぜか心に余裕が生まれる。

心とは言っても脳であり、体の一部だから、自分の体に一番いいことを選択し続ければ、気分や感情も安定してくるのは必然。

 

ただ、リスクを飲み込んで、不必要でも欲を優先するという生き方も、もちろん一つのライフスタイル……と付け加えておきたい。(自己救済)

 

 

 

名言は先生

 

謹賀新年。

 

三が日も明けたということで、今年の抱負と共に一年を生き始める方々も多いと思う。

 

そして360日後あたりに、一年を振り返った時、目標通りに過ごせた人、なかなかそうはいかなかった人、そもそもどんな目標立てたっけ(笑)な人も居たり。

 

徹頭徹尾、首尾一貫という言葉があるけど、なかなかどうして難しい。

目標自体は覚えてるんだけども、意志が移ろいやすくて…なんて具合に。

単純に表現すると「ブレやすい」ということ。

 

そんなブレやすい理由は、自分の中に確固たる芯がまだないから。芯を作るのに「勉強したり勇気を出して挑戦しよう」なんて言う人も居るかもしれないけど、頭が良かろうが多趣味だろうが、ブレブレな人は居るからあまり関係ない。

自信とか勇気なんてものは必要なくて、何より必要なのは情報取捨選択能力

 

じょーほーしゅしゃせんたくのうりょく

……漢字が並びすぎて何かの必殺技ぽいけど、要は、情報が正しいかどうか、自分が求めてる情報にピッタリ合ってるかどうかを、見極める力。

 

その力を養うには、数々の名言が非常に適している。

ただ、普通に名言を読んでそれを人生に反映……なんて錆び付いた方法ではなく、名言に刃向かっていこうというもの。

 

 

 

 

‪人を変えるより自分を変えろ

過去を変えるより未来を変えろ

自分は自分以外になれない変われない。

未来もここには無いから変えられない。

 

冬は必ず春となる

冬も温かい国もある。

 

夜明け前が一番暗い

日が沈まない国もある。

 

成功した人は皆努力している

努力してるかは本人にしかわからないし、本人が努力と思ってないケースもある。

 

失敗は成功の素

成功の素は学習。

 

若いうちの苦労は買ってでもしろ

若いとは何歳までか。苦労とは何か。

誰にも「不幸の押し売り」をする権利はないし買って得する保証はない。

 

辛いことを乗り越える度に優しくなれる

歪む人多数。

 

 

 

 

 

───よく聞く名言。

 

名言によって人生が変わる人は確かに居ると思う。自己啓発系の書籍やセミナーとまでは行かなくても、根強く語り継がれている名言に触れる機会は、生きているだけでとても多い。

 

だけど、名言を額面通り(言葉のまんま)に捉えた時、必ずしも自分にマッチしておらず、その通りに生きようとしても、どうしても自分のネガの部分が大きかったり日々の生活で生じるトラブルが複雑だったり、矛盾していたりでうまく活かせず、ただ共感して頷いておしまい…というケースがほとんどだと思う。ただの美辞麗句として。

 

そうなってしまうのは理由がある。

大半の表現が抽象的・相対的だから。

 

情報というのは、限りなく真実でないとならない。

そして限りなく具体的で、シンプルで、簡潔で、絶対的でないとならない。

 

「べき主義」というわけではないけど、何のために情報が存在するかを突き詰めると、真実性にこそ意義がある。

 

本当に心の底から人生における何某かの答えを渇望した時に、触れた情報が曖昧だと、疑問だけが残り、何も変わらないか、手遅れになって余計に苦しんだりする。

 

現実…つまり自分の人生に置き換えた時に、この人には当てはまってあの人には当てはまらないというのは、どこまで掘り下げても相対的で、移ろいやすく、ブレやすい。

 

名言に使われている言葉のみならず、日々の中で目にし、耳にする言葉はほとんどが抽象的。曖昧。不確実。

 

ただ、裏を返せば、これだけ無限の情報が溢れ返っていても、真に求める絶対的な情報というのは極々僅かしかないということ。

 

その僅かなストライクに照準を合わせて情報を探すことが、時短で、確実で、有限の人生において重要なこと。

自分の芯を作るということ。

 

その練習として、名言は打ってつけ。

「名言」は、社会的に名声のある人間が、少ない言葉数で何かを言わんとしているものがほとんどで、故に判断しやすい。

 

額面通りにサラッと読み流す前に、具体的にたくさんの人生に当てはめて、その絶対性を確かめる意識を持つことで、少しずつブレない自分になっていけるし、いざという時に答えに最短ルートで辿り着ける可能性が高くなる。

 

目標達成に必要なこと、そうでないものが見えてくる。

 

あなたの一年が、抱負通りになることを祈る。

 

 

──名言は先生……と言っても、反面教師の方だけどね。