梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

あなたの使命はどこにある

 

 

でんでんむしむしかたつむり〜

お〜まえ〜のし〜めい〜は〜……

 

 

 

はい、こんにちは。

 

 

 

‪まだネットがそんなに普及してないころ、それはもう僕も例に漏れず井の中の蛙で、仲間内で自分が一番アクションゲームがうまくて、その面白さを普及することに全精力を注いでた少年期だった。

 

日本中、世界中と簡単に繋がれて、相対的な自分の位置付けが簡単に明るみに出てしまうようになった昨今、あたかもその相対的な位置付けそのものが、自分の絶対的な価値であるかのような風潮は、とても危険だと感じる。

 

何もかもにランクが付けられる。

ゲームとか遊びだけじゃない。

年収も、学歴も、容姿も、健康も、人気も、器用さや運動能力、芸術までも。

そのトップランカーにならない限り人権が与えられないかのような、何も価値がないような、そんな厳しささえ感じるほどに、競うことが全ての人のライフワークになってしまっている時代。

 

一体、何人に勝って、誰の役に立って、何人のために生きれば合格なのか。ゴールは一体どこにあるのか。

 

そこに心からの幸せはあるのか。

 

 

 

───少年期、ただひたすら好きなことや面白いことに没頭して、そのフィールドで知らぬ間に先駆者になって、勝ち負けや優劣を超えて、最高のエンジョイを広めて普及させて共有してた。

 

あの感覚こそが、最高の人間味で、生きる喜びで、人類愛で、良き経済活動のサイクルなんじゃないかと、ずっと思ってる。

 

それは、誰もが、誰かに強制されるでもなく、誰かに望むでも与えるでも与えられるでもなく、自然な波動、自然な共鳴だったから。

 

誰も我慢してなかった。

負けても誰も責めなかった。

勝っても誰も偉ぶらなかった。

 

 

人の感情は必ず感染する。

良くも悪くも。

 

たった一人の「最高に楽しい」って感動は、必ずその周りに伝わる。

たった一人の「苦しい」が不幸の連鎖を起こす。

 

 

だから、何かに没頭して楽しめるのは、1つの才能だから、それができる人間を絶対に潰しちゃダメなんだ。

 

とことん1つのことを追求できる人、どこまでも可能性を模索できる人は、興味を持たせれば何をやらせても相当優秀な結果を出す。

 

 

井の中の蛙で良い。

人生で密接に関わる人間なんてそんな大勢居ない。

たぶん世界の74億人中、73億人には会うことさえないまま生涯を終える人がほとんどだと思う。

いくらネットやデジタルで世界と繋がってグローバルで可能性が無限だと言っても、人間の一生の時間は変わらなくて、できることが増えるほどに密度は薄くなるばかりなんだよ。

 

だから、自分の手が物理的に触れられるくらい近い環境や人達の中で、自分のありのままで生きていいんだよ。

 

自分は自分しか居ないという実感と、自分にしかできないことがあるという事実は、世界を相手にするより、よりミニマムでクローズドな環境で生きる方が遥かに見つけやすいから。

 

 

───ただ、大前提として、137億歳の宇宙の中で、あなたという存在はすでに唯一なんだってことだけは、いつも忘れずに居てほしいと、心から願う。

 

74億人は、誰もたった一人の人を必要とはしてないけど、74億人にとって74億人は必要だから。

 

「一人」が存在しないと、74億人も存在しない。

 

だから、大前提として「自分の使命は、自分として生きること」だというのは、全人類に忘れないでほしい。

 

ただ、そこに存在してるだけで、僕はあなたを抱き締めたい。老若男女問わず。

 

 

 

考えなくてもいいこと

 

 

考えなくてもいいこと、というか、幸せになるために考えるべきことって、1つしかなくて、他は全部どうでもいいこと。

 

 

他人と過去は変えられない、という言葉があるけど、もっと正確に言うと、自分も未来も変えられないんだよ。

 

自分が自分であることは、何をどうやったって変えられなくて、未来にタイムワープすることもできない。

この事実を理解して受け入れて第一歩目。

 

じゃあ考えるべきことは何か。

 

「いまこの瞬間の感情」

だけ。

 

「いまこの瞬間の感情」の「積み重ね」こそが「人生」だから。

 

……なんか以前のエントリーでも言った気がするけど、何回だって言う。

 

人生という物語がどこかに存在するんじゃなくて、自分がこの瞬間に感じてることが「即・人生」なん。

 

だから、悩んでるなら悩みの人生、怒ってるなら怒りの人生、苦しんでるなら苦しみの人生ってこと。

 

しかもその最悪な人生のうちのたった1秒たりとも、1億円払ったって一生取り返せない。

 

だから、どれだけ真剣に本気で「いまこの瞬間の感情」を、幸せに持ってく努力をするか、イヤなことからはちゃんと逃げて、自分が幸せを感じられる状態や環境にするか。

考えるべきことはそれだけ。

 

それが、自分の人生に責任を持つってこと。

 

自分を全力で幸せにしようとすることが、自分の人生に責任を持つということ。

 

苦しまないで。

 

 

低浮上のワケ

 

最近ツイッターでつぶやいてない。

‪今の自分の境遇では、何か出来事に対しての意見をつぶやくことがほとんどになっちゃう。‬

 

‪でもそれって、意見の賛否関係なく執着の始まりで。


‪野次馬(がや)って、どこまでも害しかないってわかってるのに、わざわざ労力使って意見する「がやの一人」になる矛盾した自分が居て。‬

 

‪考えをまとめるだけならブログでいいやと思って、最近は覗き見ツイッターの原点に立ち返り、ROM専。‬

 

どれだけグローバル化が進もうがネットが普及しようが、一人ひとりの力がしっかり及ぶ範囲って、めちゃくちゃ狭い。

 

二人称……いや一人称も真剣に向き合えてるか疑問なのに、さらに三人称にも口出しし始めたら、それはもう、ただの無責任でヒマな他人の戯言の域を出るはずもなくて。

 

自分たちが触れる情報って、たっっっっくさんあるけど、一体どれだけの情報や話題が、本当に自分に直接関係あるんだろうかって考えたら、たぶん2割もないんだよね。

 

なのに、残りの8割にも頭使ってああでこうで言ってるの、色々ともったいないなって。それこそ誰得で。

 

前に「アウトプットは大切」みたいなことと「取捨選択」について書いたけど、そもそも前段階でインプットするものの質や量を調節すれば、アウトプットする必要もなくて。

 

○○しなければならない、なんてことはないからどちらでもいいんだけど、やっぱりまだどこかで「誰かのための自分」が居るなぁって感じる。

 

大量のRT&ふぁぼも然り。

 

フタを開ければ、自分の芯になってる考えって「みんな好きにすりゃいいじゃん。幸せ感じなよ。逃げれる不幸や苦労からはすぐ逃げなよ」しかないから、自分が誰かに影響を与える責任なんて負いたくないんだよね。

 

それでも、なんかつまんなそうにしてたり、死にたがってたり、悩んでたりするのを見かけたら、リアルでもネットでも反射的に「やわらげよう」みたいな思考が働いてしまう。

それこそがブログのタイトルでもある「梵我一如の先」なんだけど。

 

ただ、自分のことすら背負えない現状で、人のこと気にするなんて客観的にはエゴだって重々理解してるし、メシアシンドローム然としてるなぁって思う。

 

そういったことも踏まえて、今はいい意味でもっと閉鎖的でもいいんじゃないかって、思って。

 

自分と大事な人達、好きなこと、美味しいもの、楽しいこと……そういった身近でクローズドな視野にズームすることも、人生の充実なんじゃないかと思い至ったわけです。

 

ただ、アカウントを消さないのは、

「人からどう見られたいかじゃなく、自分が相手をどう見たいか」

だから。

 

勘違いでもなく、繋がりが無くなったら寂しがる人が居るのは確実だから、こんな変な自分を慕ってくれる人を苦しませない努力は、申し訳程度でもするんです。(`-ω-´)

 

アスペなトラブルメイカーだから仲良くなるのは避けるけど、本当は好きだからね。人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの反抗期=大人のエゴ

 

 

僕の持論で「抑圧は後の爆発」というのがあるんだけど、もう毎日毎日、触れる情報がほとんど「規制と抑圧」ばかりで、イヤになってくるね。

 

焼け石に水、イタチごっこ、トカゲの尻尾切り、臭いものに蓋をする……こんなことばっっっかり!

 

そもそも石を焼くなよ、イタチを仕留めろよ、トカゲを捕らえろよ、臭いもの処分しろよ……と。

 

犯罪者を懲らしめるのもいいけど、それぞれの動機によってなぜその犯行に及ぶのかってのを理解して改善しないと、一生犯罪なんか減らんよ。

 

人は、心が満たされていれば他者や自分を攻撃することはないんだよ。

 

満たされていないのはなぜかと考えたら、それはもう100%、愛が欠乏してるからなんだよ。

 

貧困や病苦から生まれる欲望や絶望で、突発的に起こる殺人や自殺を始めとした犯罪だって、本人の周りに、たった数人の愛ある人間が居れば防げることなんだよ。

 

受験や就活に悩んで、生きる意味を見失う子達に対してもそう。

 

競争に勝たせるために周りの大人は必死になって勉強(という名の興味ない知識の詰め込み)を強要して、さらには子どもの息抜きのためのささやかな趣味すら奪ったりする。

 

「子どもの幸せや安全を考えて云々」って理由をつけてヒステリック起こす大人も居るけど、たとえ我が子であっても一人の人間の思考や感情や未来を決め付けるのは暴力。

 

家族や血縁という縛りが、余計に問題を深刻化させてる側面もあるよね。

 

他人を、相対的な自分の意に沿わそうとする人間って、どれだけ自分が偉いと思ってるんだろう。

 

この世に偉い人間なんて居ないし、苦労の押し売りに繋がるような「苦労の正当化」なんて滅びるべきだし、本当に思考の浅い人間ばかりで、イヤになってくる。

 

こういったことを踏まえて思うのは、子どもの反抗期というのは、言葉こそ「反抗」という穏やかでない表現だけど、名称自体にもう「子どもを思い通りにしたい大人のエゴ」を感じる。

詰まる所の本当の意味は「そのエゴに反抗する」っていう皮肉なんだよ。

 

「誰の操り人形にもならない」という、ごくごく当然の権利を主張してるだけなんだよ。反抗期の彼らこそが、人として一番正常な状態だとさえ思う。

 

それに、子どもは親の鏡だから、反抗期を経験するかしないかの違いは、結局は親が子を抑圧してるか否かに尽きる。

 

誰も死にたくて死ぬわけじゃないのと同じように、産まれる国や時代はおろか、産まれること自体も自分の意志で選択できないんだから、人間は誰しも自由に生きられないと辻褄が合わないし、「産まれることを強制した親」は、死ぬまで子どもを全力で喜んで愛して生かすのが筋なんだよ。

 

「産んでやって育ててやってるんだから感謝を〜」とかってケースもあるらしいけど、自分らが勝手に恋愛してセックスして勝手に子ども作って産んだ結果なのに、能動側が受動側によくもそんな勘違い甚だしい責任転嫁な発言できるなぁ、と呆れるよ。

 

そんな恩着せがましい人間を、誰が敬って感謝するんだろうね。

感謝や尊敬というのは、誰に頼まれずとも求められずとも、内発的で、湧き上がってきてどうしても止められない感情なんだよ。

 

正しく愛してれば、イヤでも感謝されるし愛が返ってくる。

 

それを、命に比べたらなんの価値もない競争にムリヤリ駆り立てて、心が幸せを感じることは全部抑圧して、しんどい思いして競争に勝つことだけが至高なんて思い込みを、ギュウギュウ押し付けて、不幸の巻き添えにするのは本当にやめてあげてほしい。

食品ロスについて考えれば、どれだけ愚かな社会的風潮かなんて、すぐわかるのに。

 

人生は「たった今感じてることの積み重ね」だから、イヤな気持ちや苦しい気持ちを感じる時間なんて1秒でも増えられたら困るしもったいないよ。

 

ただでさえ生老病死からは絶対に免れられないんだから、物理的に避けられる苦しさはどんどん避けていい。

 

そして、相手が家族だろうが偉い(と言われてる)人だろうが「思い通りにならないと一方的に攻撃してくる人達」には、どんどん「反抗・無視・逃避・反撃・防衛」しないと。

 

それでダメなら、早々に絶縁。たとえ家族でも。親でも子どもでも。

「苦しみ」を軽く見るのは、それが自分であっても、エゴだから。

 

これに限らず、どんな時でも、逃げる体力だけは、尽きないように気をつけたいね。

 

 

 

 

 

やらつややしむ

 

タイトルだけ見たら、あぁ、ついにこの人は頭がおかしくなったんかって思われるけど、大丈夫、元からおかしいから。

 

で、このタイトル、

twitter

って書いてあるんだけど、読める?

読めないよな。いよいよどうかしてると思われる。

 

 

でも、ガラパゴスケータイもといフィーチャーフォンもといパカパカケータイもとい折りたたみ携帯の時は、できてたの。

 

どういうことかと言うと、キー配列と変換の違いなんだけど、昔のケータイって、50音の「あ段」に英字や記号が振り分けられてたの。

 

あ @./

か abc

さ def

……

 

みたいな感じで。

つまり、"あかさたな"と打つと、変換候補に、"@adgj"と出たわけ。

 

いちいち英数と日本語を切り替えたりしなくても良かったからめちゃくちゃラクだったんだけど、そういう変換機能のあるスマホのキーボードアプリってあまり聞かないから、あったらいいなーと思う。

 

 

ってだけの話です。()

 

 

最近、やらつややしむ がなんだか微妙で、こっちに書いた。

 

 

真面目な人ほどしんどい

 

1999年、とあるロックバンドが金字塔を打ち立てた。

幕張メッセでの単独公演で史上初の20万人動員した伝説のロックバンド「GLAY」。

その記録は2017年の今も塗り替えられてない。

 

当時キッズだった自分も、その社会現象の渦に身を投じてた。

 

1999年の20万人ライブの前に行われた「pure soulのドームツアー」の一部始終を、NHKが追ったドキュメンタリー番組があり、幕張の数ヶ月前に放送された。

キッズだった僕はそれを食い入るように観ていた記憶がある。

 

ビデオテープに録画して、画質が劣化するまで繰り返し観ていた。

 

先日、YouTubeでたまたまその番組を見つけた。違法アップロードだからリンクは載せられないけど、とても懐かしかった。

GLAY 奇跡と栄光の向こうに…」という番組名。

 

当時観ていた時から、ボーカルのTERUさんがインタビュー受けてるシーンがとても印象的だった。

 

その発言の内容は、当時のあの方々の年齢を超えた今の自分が聞くと、より一層胸に響いたし、考えさせられた。その一つが、

 

「100人いたら100人とも考えや意見が違って、できるだけ一人ひとりと向き合いたいと思う」

 

という旨のもの。

 

この頃は、まだ携帯電話もインターネットもそこまで普及していなくて、大人でも持ってない人の方が多かったと思う。

 

今で言うところの2chのようなBBS(掲示板)というものが、ネット上の主な交流方法だった。

 

今のように、一瞬で手元のスマホでアプリを起動して、アカウントさえあったらサクサク……なんてワケにはいかず、PC本体は岩石のようにデカイわホームページの読み込みは遅いわコンテンツはチープだわ、それ以前にネットの利用料自体が従量制でどんどんお金かかるわ、ひいき目に見ても自由とは程遠いネットの世界だった。

 

それでも、「マイノリティでクローズドな世界」の中でみんなが「自分の好きなものだけを求めて集まる」ような時代だったと思う。

 

逆に言えば「好きじゃないものがあまり目に入らない、避けやすい時代」だったのかなぁとも思う。

 

それでもやっぱり、音楽なら違うバンドのファン同士の争いもあったし、過激なファンも居たから、ただ表面化しにくかっただけなのかもしれない。

 

そんな、もう15年以上も前にGLAYのTERUさんが放った先ほどの言葉は、今の時代にも共通してる本質的な言葉だと思う。

 

TERUさんが、現代で、心ない人の言葉に悩んでインスタグラムのアカウントを消したのは記憶に新しく、思い出して改めて胸が苦しくなった。

 

20年近くも変わらない想いで、姿勢で、一人ひとりの声に耳を傾けて、ライブでは絶対に後ろの人まで楽しませる事に重点を置いてきた方々。

 

めちゃくちゃ優しいしめちゃくちゃ強いし、本当に思慮深いと思うんです。

 

だからこそ、たった一人の発する心ない言葉にも真剣に向き合って、落ち込んでしまう。

何十万人というファンが居て、味方が居ても、それだけ言葉の槍の破壊力というのは凄まじいものなんだと、改めて思った。

 

───ドキュメンタリーで、TERUさんはこんな言葉も仰ってました。

 

「たとえ運命が最初から全部決まっているものだとしても、『自分で切り拓いてきたんだ』と言えるような生き方がしたい」

 

 

やりたいこと、やる意味、価値、そういうことがわからないだけでも不安な人生だから、なるべく人に苦しめられないように、人を苦しめないように、自分を苦しめないように、自分にも人にも「固定観念」を押し付けないように、自分の心が穏やかで居られるように、愛して愛されて生きられる人生が、いいよね。

 

 

 

 

生の中の死

 

 

生き物は、生きてるから死ぬ。

生きてなかったら死なない。

映画やゲームで出てくるようなゾンビは、死ぬじゃなくて「活動を停止する」とかって表現する。

 

「生きるの反対は?」と聞かれたら、誰しもが「死ぬ」と答える。僕もそう。

だけど実は「死ぬ」の反対は「産まれる」なんだよね。

 

じゃあ生きるって?ってなるけど、これは人生という一直線上の途中経過まるごとなんだ。

 

それの最後に「死」がある。

言い方を変えると、生の中に「産まれると死ぬ」がある

 

生きる上でその2つは、どうしても避けられない二大イベントなわけだ。

 

 

───とある若い絵描きさんが亡くなられた。それも突然の病で、ほんの数日の出来事。

 

僕らは、きっと自分や人の「死」を、普段から意識しなさ過ぎな気がする。

 

「おとといも楽しかったし昨日も頑張ったし今日も元気だ!だから明日も……」なんて、どうして確信持てる?

 

「まさか自分があの人が明日死ぬわけない……」なんて、ただただ都合のいい未来を勝手に信じて、「時間はたっぷりあるから」なんて考えて、幸せにはなんの関係もないことを毎日優先してるんじゃないかな。

 

そんなことをしながら、我慢して先延ばしにして生きてるから、生きてる意味や幸せや自分の価値を見失って、あろうことか「いま生きてる」という確固たる真実さえも、自暴自棄になって壊そうとするんだと思う。

 

そんな悲しいことある?

みんな苦しむために産まれたわけじゃないんだよ。

最初から苦しみたい人なんて居ないんだよ。

逃げることを阻止して、個体差を無視して団体や組織に属させ同調させて、幸せをどんどん奪うのが、僕らのしたいことじゃないはずなんだよ。

 

「命や生きてることそのもの」に比べたら、他はオマケみたいなもんなのに、オマケに囚われて、下手したら死んじゃうって、悲しすぎる。

 

死と向き合って、死を意識することこそ、自分が求める生き方、自分が望む価値、命の価値が見えてくる、そんな気がするんだ。

 

 

───今の科学では「無」の存在を証明できないらしい。存在を証明した時点で「無じゃなくなる」もんね。

「有」の相対として「無」という概念を人間が生み出しただけ。

 

だから、液体が蒸発したら気体になって、人が死んだら燃やして灰になって、そうやって「有るものはずっと有る」って真実を直視すると、じゃあ死ぬってなんだろう?命ってなんだろう?産まれるって??……いろいろおもしろくなってくる。

 

「僕がここに居る、あなたがそこに居る」って現実は、とても不思議で、絶対的で、それでいて奇跡的なことなんだと、思うんだよ。