梵我一如の先

恥と痛みは誰が為に。

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低評価をつける人々

 

「低評価」って「私は価値を理解できませんでした」って露呈なんだけど、それって100%自己責任なのに、棚に上げて匿名で酷評して責任転嫁してるの見ると、めちゃくちゃ恥ずかしくなる。

 


「良いと思わない」→ただの感想。

「何が良いかわからない」→ただのアホ。

「これはゴミだね」→あなたの思考がね。

 


評価は、比較や感想じゃないんだから。

 

 

 

逆に、スペックシートの如く評価してる人は、対象を良く理解している。

…本来、対象を理解してないと評価自体できないはずなんだけど。

 


履き違えてる人、山の如し。

 


一方、PV数の多い(であろう)ブロガーさんの商品レビューを拝見すると、絶対にネガティブな言葉を使わないし、不満な部分を未来への期待に変えてしまうあたり、さすが。

 


「☆5です!この商品の○○の機能が良い!△△なとこが便利で助かる!◇◇がもっと▲▲だと素晴らしい!商品の進化に期待!」

 


という感じ。

うん、真っ当に「評価」してる。

他と比べず、その商品自体の価値を見てる。

評価って「価値を評する」ってことなんだけど、価値自体は高い低いじゃなくて「有る一択」なんだよ。

厳然と存在する価値の中でも、どんな価値が有るかを評して、定めるんだよ。

 


作品や商品、動画などが「存在してる事自体」が絶対的な価値で、相対的な価値は各々が自由に付与するものだから。

 


それは人間に対しての評価も同じ。

 


価値が低いとか無いって判断する人間は、価値を付与する自由を放棄して、自分はセンスがない、無知、思考浅薄、ネガティブって言ってるのと完全に同義なんだよ。

 


たくさんの人の前でそれを暴露して、さらに匿名で責任転嫁して攻撃して喚いてるって、醜いし恥ずいし不幸。

なんかもう、地獄への道連れ感がすごいよね。

「一人では死なぬぞっ…!!!」って(笑)

 


「物事の価値=自分の見識」と知ろう。

 


これを読んでる人の中には、そういう無責任な低評価を日常的にする人なんて居ないと思うけど。

文章は読めても正確に理解できない人、多いからね。

 


人・物・事の価値、正確に見れる目を多くの人に養ってほしい。

 

 

師走に見た変な夢

 

このブログとは別に、自分のメモ帳に夢日記みたいなのをつけてる。

 

何ヶ月〜何年かに幾度か、変わった夢を見る。セリフや登場人物の顔、情景、物の配置、細かくカラーで鮮明に覚えてる時がある。

そういう夢を見た時は、起きたら決まって寝汗をかいてるか、動悸が激しいか、大号泣で嗚咽してる。

そして決まって、自分の中の漠然とした疑問が明確化したりする。

今回もそんな夢だった。

 

 

 

───顔も名前も知らない夫婦と、どこぞの家のキッチンみたいなとこで、仲良く立ち話。

僕はなぜか泣きながら、90度お辞儀して、お互いを助け合って生きてくださいとお願いしてた。もう、懇願。嗚咽しながら。

目が覚めても本当に号泣してた。

 


詳細に言うと、

「お互いの足りない所や不満な所を言うより、そばに居ることや与え合えることに感謝し合って生きていってください」だったと思う。

 


夢の経緯としては、そのご夫婦と他愛もない話をして本当に平和な雰囲気で談笑してた時、夫婦仲を褒める感じで少し冗談で茶化した(冷やかした)時に、一瞬だけお嫁さんの顔だけが曇って、悲しそうな、苦い顔して斜め下を見たんだけど、それで「仮面夫婦」ってことに気付いてからの流れ。


目が覚めてから、色々考えてわかったのは、そういえば自分自身、両親が仲睦まじくしてる所を見た事がないなと。

昔の父はひどい人だったし、それが理由で今でも母は精神を病んでいる。かなり改善されたけど、まだまだつらそう。

 

今でこそ、父は自分が発達障害だってわかって気をつけるようにはなったけど、明らかに価値観がマジョリティから逸脱してる以上、というかそれを変えることがほぼ不可能な以上、よくある「仲良し」からは程遠い夫婦関係はこれまでもこれからも続く。

 


そんな二人のすぐ近くで、歳が一桁の頃からずっと仲介役しつつ、時に直接的な被害を受けつつ育ってきたことが、自分の中である意味、人に求めるものの大きな指標になってるのかもしれない。

別の事情で一人暮らし始めてから、そういったことによく気付く。

 


仲良く、助け合って、愛し合って、本当に互いが尊重し合う人間関係。

ただ存在に感謝して、感動して、いくらでも与え合いたくなる関係。

 


それは、夫婦や恋人だけでなく、全ての関係性で目指したい、そうありたい、というか本来はそれがあるべき姿なんだと。

 


人は、究極的には「悦」を目的に生きてる。

自分や他人や物、どんなものにでも「ハードル」を課せば課すほど、その悦の量はどんどん減ってく。反比例。

 


つまり、日本の教育そのものが減点法だから、何に対しても「社会が作り上げたステータスの正解」を前提に評価して、減点してしまう。

 


だけど、目の前に正解はある。

目の前というか、自分の中に。

自分も人も、みんなも、この世に一人だけの貴重で尊大な価値がある存在で、それを無視したら何をどんだけ彩ろうと偶像・虚像で。

 


現実的な、金の話とかは食品ロス問題だけ取って考えてもすぐわかるから割愛するけど、自分も人も、産まれただけでOK、生きてるだけで100点ってことに気付かないとずっと苦しいししんどい人生になる。信じる信じないとかじゃなく、もう、歴然たる真実が完全にあって、それに気付こうよって話。

 


今でこそ理屈で理解できたけど、小さい頃から抱いてたこの感覚をずっと明文化できず、常識との擦り合わせに四苦八苦して、根拠を胸張って提示できなかったが故にその都度自分を押し殺して、黙って、燻らせてきた。

 


恋愛で誰か一人を選ぶのも、何をどこまで求めるべきかも、本当に自分にとって難しい。

互いの存在をまるごと肯定した上で、求められることを求めて、与えることが与えられることだと理解した人間同士じゃないと、きっと自分は快く求めることはできない。

 

ギブアンドギブで誰にでも平等に全力で向き合うのは、八方美人だけど、中途半端に自分の欲でそうしてるわけじゃなく、それが人間の本来の姿というか、自然体だから。

時に、本人以上に本人のことを真剣に考えて悩んでる時も多い。老若男女問わず。


誰にも理解されないとか、自分を好きになれないとか、そんなくだらないこと(敢えてこう表現する)で自分の巨大すぎる存在価値を否定する権利は、自分にも誰にもないから、誰にも苦しんでほしくない。

 


そういう切願の根本理由が、やっぱり自分の育ってきた環境や境遇にあるんだなと再認識した、不思議な夢だった。

 

 

対人の葛藤と総括

 

 

 

 

深く踏み込むか、断つか、そんな二極化した考えしかできなくなったのは、何もかも自己完結し過ぎて、誰との浅い繋がりにも意味を見出せなくなったから。

ツイッターだってブログだって、LINE@の音楽だって、自分としては本当は何もしなくても問題ない。

 


ただ生きてるだけで、心音の響きだけで、いつでも何度でも感動できるようになってしまったことは、何より幸せであると同時に、相当な異端で「普通」とかけ離れた感覚だとも思うようになった。

変わる幸せと変わらない幸せ、両方を知ってしまった。

全てのことを肯定もできるし否定もできる、ここまで来てしまった。

 


一時期は、強がりや意地かとも考えたけど、実際にいろんなやりたいことを実行に移そうとした時、絶対に一人だけでは何も成し得なくて。

巻き込む人に対しての責任を最後まで持てるか、その覚悟があるか、体は「もつ」かを冷静に考えたら、今の自分にできることは「自分を穏やかに生かすために努力する」に終始する。

何度考え直しても、そこに行き着くだけだった。

 

 

 

人との繋がりを深くするにも、新たな繋がりを作るにも、そのリスクが大きすぎて。

自分だけ関係性の先が見えてしまう、自分だけ相手の芯を見抜いてしまう孤独感と、わざわざリスクを冒してまで渇望するものがない無欲さが、自尊心の欠けた現代の誰かを幸せにすることなんて絶対にないってわかってる。

 


この無欲が、臆病なのか真意なのかは、その時々で変わる。

無責任な傲慢で、できるかどうかもわからない約束をするほどバカじゃないし薄情にもなれない。

それがどれだけ「人を苦しめるか」を知り過ぎてる。

記憶が多すぎる。異端な記憶が。

 


責任を持てる範囲は、自分で弁えてる。

現状では誰も守れないし、何も与えられるものなんかほとんどありゃしない。

あるなら教えてくれれば全て差し出したいんだけど。

言葉でも、心でも、体でも、金でも、時間でも。

 


今は、自分の存在や元気を望んでくれる人のために、そう在ろうとしてるだけ。

この姿勢を忘れて自分本位に生きれば、たちまち肉体的苦痛に悶えて、また日常生活すら自力でできなくなってしまう。

 


日々のたくさんの縛りに耐えるのは、結局、自分のためじゃなく人のためだから、これ自体は誇っているし尊いと分かってる。

 


じゃあ、どうしてこんな文章を書いてるんだろう。

自己分析も他者分析も済んでるし、結論も自己完結しているにも関わらず、誰のために、何のために、こんな文章を書いたり、音楽を公開したり、人と関わろうとするんだろう。

 


誰かに理解を求めてるわけでもないし、何かを主張したいわけでもない。

 


強いて言うなら、この期に及んで「意味のないことなんてない。全てに意味がある。何が誰のためになるかは分からないし、心や思考を残すことそのものが情報(財産)なんだ」って衝動だけなんだろう。

 


はたまた備忘録か、自戒か。

 


最近は、これまでどうして何度も死にかけたのかを、よく忘れる。目も悪くなり、食べ物や触れる物や吸う空気、行ける場所、できること、全てに縛りがある現状になったのはどうしてかを。

 


自己犠牲を極めて、体の無理を押して人のために生き過ぎたから。

忘れるのは、それだけ苦痛から解放された証明でもあるんだろうけど。

 


だから、今の自分がすべきなのは、自分を愛することや大切にすること。それは重々承知してる。

 


───それでも誰かを喜ばせようとか、誰かが苦しんでたらそれを緩和しようとか、なるべく傷付けないようにとか、いつも脳をフル回転して考えてしまってる。

 


そんな自分の不器用さに、ほとほと困り、呆れ果ててるのかもしれない。

 

来年は……と言わず今後、「欲望を持つ責任と覚悟を負える体」を、また取り戻せることを願いつつ、臨床研究を待ちつつ、それなりに努力しつつ、生き長らえようと思う。

 

 

歌の力

 

歌を聴いて、癒されたり励まされたり、自分を鼓舞したり、思いっきり泣いたり、ただただ楽しんだり、歌には色んな力があると思う。

 

ただ、歌を聴いてとても悩むこともある。

 

アーティストのオリジナルの歌は、大勢に向けて発信されたものだから、無意識的に一定の距離感を保って聴いてるところがある気がするんだけど、ここで言う歌は、身近な人間の歌。

 

つまり、カラオケやカバー。

なぜそれらを聴いて悩んだりするのかというと、歌ってる人の意志をダイレクトに感じてしまうから。

 

「作品を出す」ことと「歌を唄う」ってのは、全然意味が違ってて、もちろん「音楽鑑賞」と「歌を聴く」ことも違う。

ある種、一般の人間がアーティストの曲をなぜ歌うかという理由は、音楽で生計立ててるオリジナルの作曲者の作曲動機よりも強く明確な気がする。

 

「その時」、「その場所」で、「その選曲をする」ということが、すでに強い意志の顕れだから。

そして、人の「好きな曲」や「歌いたい曲」には、それに付随する特別な過去・思い出が必ずある。

 

既存曲(作品)という「アーティストからの完成された強いメッセージ」に、カラオケやカバーして歌う人それぞれの心や思い出の全てがプラスされる、言わばその歌には「二重の人生」が乗ってるから。

 

僕は人の「考え」はわからないけど「感情」だけはとても強く感じてしまう。

その感情が、どんなものであっても、誰に向けたものであっても、関係ない。

「その人の人生」を追体験してる錯覚に陥るほど、強く伝えられてしまう。

 

もちろん、真剣に聴いてもなーんも感じない人も居るけどね。

虚栄や虚像に塗れた人の歌は、技術的なこと以外は何も感じない。

うまく歌おうとしてるだけの歌も、何も感じない。

うまいだけなら世界中にたくさん超一流が居るから、それを聴けばいいし。

 

声というのは、その人の全てを顕す。

話すスピード、高さ、イントネーション、選ぶ言葉、ブレスのタイミング・深さ、呼気の量、呼気の強さ。

 

目線や動作も考慮したらキリがないほど。

 

それらは、意識しなければ全て自然に、勝手に決まるもの。

話し方・歌い方=性格・心・命と言っても過言じゃない。

 

つまり、技術的なことではなく、その感情を経験したことがなければ出せない声ってのがある。

同じ感情のベクトルでも、その長さ、深さによっても変わってくる。

 

芸術の定義は、感情の伝達だと思ってる。発信した段階ではまだ芸術ではなくて、その感情が伝達・存在が認知されて初めて芸術になる。

 

時折、その「命の叫び」とも「全裸くらい素直すぎる心」とも言えるような歌を聴く時がある。

 

共鳴してしまう。

 

たぶん、自分は、成人するまでに、あまり人が経験しないようなクライマックス的な経験をしすぎたから、人と価値観が全く合わなくて思考や感情のプロセスやベクトルや深さも全く違う。

もちろん、アスペルガーだからこそそういう人生になってしまった可能性が高いのは否定できないけど、気付いてからの世間との擦り合わせもラクじゃないなと思う。

 

───脱線したけど、こんな自分が、その「ありのままの歌声」ってのを聴くと、例えばその感情の種類が寂しさや切なさや後悔や愛情だった場合、その深さを理解して共鳴してしまう。

この人の過去に一体、どんなことがあったんだとか、その時にどういう行動を取ったのか、何を考えてたのか、そしてこの人がこの曲を「今」選んで歌うその意味とはなんなんだろうとか、過去に対して、今、何を思うんだろうとか、もう完全に歌ってる本人の感情と一致してしまって、依存的になってしまう。

 

そう、依存的になってしまう。

居ないからね、そういう歌が唄える人って。

プロでも、なっかなか居ないから。

というか、あるベテランのアーティストの方でさえも「うまい人はたくさん居るけど、伝わる歌を唄える人はプロシンガーでもそうそう居ない」って仰ってたほど。

 

だから、そういう「貴重な歌」を聴くと、その人に依存しそうになる。

「異常な知的好奇心」というダメな癖が出てしまって、強烈に執着しそうになる。

 

老若男女は問わずだけど、関係性によってはトラブルになりかねない。

 

そんなこんなも含めて、歌の力ってのは、本当に壮大で素晴らしいものだと思った今日この頃でした。(ムリヤリまとめた)

 

 

定型発達は人を操作できない??

 

人の顔や目線、声のトーンやイントネーションや話す速度、言葉選び、振る舞いとか見てると、大体の感情や意図、思考を想像できる。

さらにこちらのレスポンスは、相手の心がその後どう変化するかを予測してから行う。

それをリアルタイムで続ける。

……って前にも書いた気がする。

 

つまり、ある程度は人の心を操作できるのが普通って思ってたんだけど、どうやらみんながみんなそうじゃないみたい。

 

‪小さい頃は「普通を装う」って目的のための手段で仕方なくやってたけど、そのうちデフォになって、勝手に神経を磨耗するようになった。‬

‪自分の言動や行動が「人を操作してる」のか「自分の本心」なのか、正直わからんって最近気付いた。ヤバみ。‬

 

完全な「素」を出すと、自分は小学校低学年くらいの単純思考とテンション。

良くも悪くも純粋で、虫酸が走るほど前向きで、決断や行動が極端で大胆で、常に動きまくってやかましい人間……だと思う。

 

だから、この世で一番ムダなのは建前や社交辞令やと思ってる自分が、その素を隠すのは矛盾する……とは思ったんだけど、よく考えると、今は隠してるわけじゃない。

 

上述したように、小さな頃は一人だけ「浮いて」て、「変」で、「馴染めなかった」から、意識して人の機微を読む努力を続けてるうちに、もはや無意識でもそうしてしまうようになったみたい。

 

これこそが、アスペがすぐにめちゃんこ疲れる大きな原因の1つだなと。

 

裏を返せば、定型発達の人は、人の発言を誘導したり感情を操作したりと、そういうことをせずとも考えずとも、ほんとに日々問題なく生きていられるんかなと、時々その感覚を知りたいと純粋に考える。

 

どちらも真実だったとしたら、この明確な違いって、ほんとにおもしろい。

別の生き物レベル。

 

次の目標は、隠れた自分の欲望を炙り出すこと。

 

 

記憶の価値

 

‪自分は覚えていて、相手は覚えていない、ということが多い。‬
‪もちろん逆の場合もあるけど、前者の割合が多い。‬

‪昔は「記憶の共有量=人生の財産」と考えていたけど、記憶に限らず個体差のあるもんに依存・固執するべきじゃない。

感情がブレブレになるし、苦しかった。

‪証明なんてなくても100%意識はここにあるし、その時あった。そう知覚してるし、してた。誰が覚えてなくとも、存在した。

未来永劫変わらない。それが全て。真実。‬

 

「存在は本当に存在するか」という証明は、前提として、自分が知覚してるかどうかでいい。

自分が認識しているからこの世界は存在してる。

意識があるから、この世界が有るか無いかをジャッジできる。

 

このブログを読んでる人はご存知やと思うけど、僕は、別の時間軸の存在が証明されない限り、この世は必然だけだと考える。どんな悲劇も喜劇も。

となると、「運」の個体差を説明できるのは因果応報だけ。その基準や仕組み、ルールは当然わからないけれど。

善行が徳を積むとは言うけど、「その壮大な摂理の中での善行」が何かも、正直わからない。

 

少し脱線して、性教育の話になるけど、射精1回分の精液の中に精子は約1〜4億匹いる。大抵、その1回分で見事受精するのは極めて稀。

「妊活」という言葉があるくらい、新たな命を授かるのは難しい。

それを考えると、数億〜数十億匹が、生死を懸けた(下ネタギャグではない)過酷なレースをし、見事勝ち抜いた1匹が受精し、着床し、遺伝子情報を基に細胞分裂し、1人になっていくというのは、もうとんでもない奇跡。

 

そして、形になった1つの命に対して、数億〜数十億の「存在できなかった存在達」が有る。

 

「存在してる」という真実だけで、もう必然の選ばれし者であり、あらゆる価値を超越した究極の価値を得てるも同然なんだ。

 

……いつも言ってるように、その価値を蔑ろにしてしまってるから、社会に悲観的な風潮が漂って狂ってくんだけど、ここでは割愛する。

 

過去も未来も、ここにはない。

ここにあるのは「今」だけ。

 

「今」の価値と「存在」の価値をどれだけ感じるかが、一番大きな幸せへの唯一の切符。

 

これを忘れずに居たい。

 

昨日までの記憶が毎日無くなる障害の人だって、世の中には居る。

毎朝、まずベッドルーム中に並べられた写真立てやアルバムを眺め、パートナーから自己紹介と、馴れ初めと、昨日までの互いの人生を聞かせてもらうことから1日が始まるとか。

 

その人は、不幸なのか?

その人は、人生を楽しめないか?

そうじゃない。

 

きっと、人生の価値は、もっともっと単純で、瞬間・刹那の積み重ねで、それゆえにみんな忘れたり複雑にしてしまったりする。

 

だけど「今存在してること」を一番大切にして生きれば、自ずと過去も未来も輝かしいものになると気付けた時、何も代わり映えのない日々のままでも、心が音を立てて激変する。

 

逃げるべき時は逃げ、休む時は休み、心を大切に、ね。

 

 

急がば回れ

 

2015年の8月24日、死の瀬戸際まで行って突然覚醒した時に理解した、一元論と、命の仕組みや絶対価値。

 

あの時はそれに感動して、一気に地獄から天国になって歓喜して、数日間は嗚咽が止まらなかったわけだけど、そこで新たに、これをどうやって人に伝えようかという悩みができた。

それから、自分が理解したままにいろんな人に伝えても当然ほぼ理解されず、3年ほど試行錯誤してきた。

 

それで、やっとわかった。‬

 

「理解力も十人十色」だから、例えば小学一年生に高校三年生レベルの話を延々と真剣に話しても、大概は一生伝わらんし理解させられない。

それどころか、ちんぷんかんぷんな回答が来たり、不機嫌になったり、全然違う話を始めたり、退屈すぎて居眠りしたり、教室を立ち歩いたり、おともだちとおしゃべりを始めたり、無視したりする。

 

そう考えると、大人の世界でも同じやな、と。

 

想像だにしない次元の価値観を話されても、それが真実であっても、人は自分の知識や経験や記憶のパズルのみを組み合わせて物事を考える以上、どうやったってゴールに到達し得ない。ピースが足りない。理解できない。

 

そもそも、相手が不幸だろうが幸福だろうが、理解しようが理解しまいが、僕の幸・不幸には厳密に言えばなんの関係もないから、苦しいままがいいなら苦しんでいればいいけど、生理的に考えて苦しみたい人なんて居ないから、理解できれば昇天できるのに、ってずーっとどうしたらいいのか悔しく感じながら悩んでた。

 

 

理解力や固定観念や先入観ってのは、生まれてから今までの洗脳や刷り込みによる影響がほとんどやとは思うんだけれど。

 

だから、遠回りのようだけど、本当に0より1の精神で接することが何より近道で、一生かかったとしても、いや一生かけたところで相手が本質に気付けなかったとしても、最初から100を示して1すら与えられずに終わるよりかは、1だけ与え続ける方が、確実にある種の結果は出る。前進してる。プラスになる。

遥か先に確かに100が見え始めるから、示すよりも1を与え続けよう、と。

 

‪1〜99で与え、応えることで、0と100を示す。‬
‪そうやって生きる。‬

人のそれらも受け取れるようになりたい。
まずは縁する身近な‪人達の幸せを増やすために。‬

人のザルに水を注ぎ続ける生き方のしんどさは、充分にわかってる。

だけど、また始める。いや、もう始めた。できることから少しずつ。
‪かつて無理が祟った時と違うのは、もはやギブとかテイクって話じゃないってこと。‬
‪これは、ライフワーク。‬

心底、自分がそうしたい。

自分の自己顕示や自己肯定や自尊心なんかどうでもいい。僕が何者で誰かなんてこともどうでもいい。

アイデンティティさえ、その目的のためのツールやから。

ツールが必要なら得るまで。

 

人は須く幸せをたくさん感じたい生き物。

その幸せを微力ながら自他ともに増やす。ちりつも精神で。

それだけのこと。

それこそが、追い求めてた一元論の先だ。

形而上学や哲学の真髄は一元論止まりだけど、実際に凡夫としての現実に即した生き方を模索してた。

刹那と永遠、個体と全体、人間を一番に考えた際の、最善の生き方を。

ようやく、晴れた。

 

接する人の、心のザルの目が塞がっていくかどうかは、逐一、気にしてても一向に解決はしない。動き出せない。何も変えられない。

人の幸せを増やす。笑顔を増やす。

再びそうやって生きるために、死にかけからなんとかここまで這い上がってきて、体を維持するために今も極限の縛りを続けてるんやから。

 

 あぁー、スッキリした。